「はせべ…」



仕事の最中、後ろからの呼びかけに振り向いた。声を聞いただけでわかる。開けっ放しだった障子の端から幼い主人が顔を覗かせている。



「主、どうかしましたか?」
「ん…」



体を主人のほうに向けると、遠慮がちに部屋へ足を踏み入れてきた。その足取りはどこか重く見える。
正座した長谷部と立っている主人は目線が同じくらいだ。正面に見えるその目は、どこかいつものように明るさを宿してはいない。

ふと長谷部が思い至って主人の手をそっと握ると、倒れ込むように主人は長谷部にしがみついてきた。膝に乗った主人は長谷部のシャツをぎゅっと握る。控えめにその背中に手を添えた。



「きょう…、あんまりげんきがでないの…」
「ええ、見てわかりました。大丈夫です、すぐに元気が出ますよ」
「うん…」



主人には時折こうなる時があった。
昼寝をして嫌な夢を見たというときがあれば、なんとなく何かの不安に駆られてというときもある。天気が優れないから、なんだか怖いから、一人でいるのが嫌に思ったから。理由は様々だが、たまにこうして目に見えて元気がないときがあった。

初めて主人がそれを訴えたときは理解しかねる感覚だった。体調が悪いわけでもないのに、なぜこんなに元気ではないのだろうかと思った。
それほど重要視する現象ではないだろうと思っていたが、以前こうして主人がやって来たとき、一度本当に体調を崩していた時があった。具合の悪さが自分ではわかっていなかったのか、ひどい発熱だった。
それ以来、長谷部は主人が訴える不調にはより敏感になった。それが例え気分的なものであれ、感覚的なものであれ。



「今日のおやつは何でしょうね」
「ん…、なんだろう…」
「主のお好きなものだといいのですが。粒あんの何かかもしれませんよ」
「うん…。でもわたし、おかしは、なんでもすきだよ」
「そうでしたね」



つらつらと中身のない会話を続ける。
今日は天気がよくないだとか、雨が降るかもしれないとか、最近少し寒くなってきたとか、そんなどうでもいい話題を長谷部は出し続けた。主人が返答をくれなくても。
今回の理由が何であれ、沈黙が一番いけない。主人の不安を煽るだけだ。何のために主人がここへ来たと思っている。得も言えぬ何かからの助けを求めてだ。
加えてこれを放っておいては、心身の影響で主人の霊力が乱れるだろう。主人はまだ、霊力のコントロールがそこまでうまくいかない。

主人の呼吸に合わせるように、長谷部も息をした。
主人の刻む小さな鼓動に合わせるように、一定の間隔でそっと背中を叩いた。

しばらくして、シャツを掴んでいた主人の手が緩んだ。強張っていた体は、気が抜けたようにゆっくりと肩が沈む。詰まる息は、栓が外れたように大きく吐き出された。主人の中の渦巻くものが解けて、緩やかに流れ始めるのを感じた。
ああ、よかった。正常に戻られたか。



「主、何か飲み物でも用意しますか?」
「ううん…、だいじょうぶ」



シャツから手を放した主人は顔を上げると少しだけ笑う。



「…きょうのおやつ、なんだろうね」
「そうですね、何でしょう」
「はせべのすきなやつかな。こしあんのなにかだといいね」
「はい。ですが、長谷部は粒あんも好きですよ」
「わたしもつぶあんすき」



先ほど長谷部が同じような話をしたことなど主人はわかっていないだろう。返事はしてくれていたが、空返事だった可能性が高い。
背中を支えていた手を放すと、主人は滑るように長谷部の膝から降りた。



「ありがとうはせべ」
「元気が出ましたか?」
「うん、げんき。はせべからげんきもらった」



先ほどとは違い、いつものように目はしっかりとこちらを見てくる。



「ほかのみんなからもげんきもらったんだけどね」
「長谷部の所へ来る前にですか?」



頷く主人にそうでしたか、と短く返した。
恐らく、助けを求めて近くにいた刀剣たちを頼ったのだろう。



「でも、はせべがいちばんげんきでる」



その一言に、一瞬呼吸を忘れたがすぐに笑い返す。



「光栄です、主」



嬉しくならないわけがない。



「おやつ、もうできたかな」
「燭台切の所へ行ってみましょうか」
「うん、いこう」



立ち上がった主人に続いて長谷部も立ち上がり、二人で部屋を出る。

廊下を歩く途中、主人に人差し指と中指を掴まれた。急だったので驚いたが、主人は急かすように長谷部の少し前を歩く。
長谷部の手を掴みきれないその手はなんと小さいのか。長谷部が大人の姿で顕現しているというのもあるが、そうでなくとも大きさは段違いだ。
主人は、年も見た目も相応の子どもだと再認識させられた。





*****





なんだか急に怖くなった。
急に不安になった。原因はよくわからない。何もうまくいかなくて、それは自分がだめな人間だからで、誰も味方はいないような気がした。
嫌だな、もう十三歳になったんだから、しっかりしなくちゃいけないのに。自分で全部できなくちゃいけないのに。どうして上手くいかないの。どうして私はできないの。

ここにはたくさんの刀剣男士たちがいる。
小さい頃から一緒で、最初は自分がどうして彼らといるのかもわかっていなかった。出掛けて行く彼らが何をしているのかもわかっていなかった。でも今はそれもわかる。自分の役目もわかっている。彼らが怪我をして帰ってくることもある。それは私に従っている彼らにとっては、もはや当たり前のようになっていることで。
それって、私が彼らを怪我させているんじゃないか。私に仕えているから、彼らはつらい怪我までして戦いをするんじゃないか。全部全部、私のせいじゃないか。

どうして皆は私なんかに従っているの。
どうして私なんかといるの。
私はとても駄目な人間なのに。
ああ、もう、全部が全部、だめじゃないか、私。

みんないつも優しくしてくれているけど、それは違うんでしょう?
どうしてこんな女に従わないといけないんだって本当は思ってるんでしょう?
もっとしっかりした、大人の主人がよかったって思ってるんでしょう?
本丸にいるみんな、私のことが、嫌いなんでしょう?

そんなことはないと頭の片隅で自分が言う。でもだめだ。怖い、気持ち悪い。
みんなから悪く言われている気がする。みんなから嫌われている気がする。指さされて、早くいなくなればいいのにって、言われている気がする。
いやだ、みんながいないと寂しいのに、みんなといるこの本丸という空間が、逆にぎゅうぎゅうと自分を圧迫してくる気がする。お前の居場所なんてここにはない。潰れてしまえ。どこからかそんな声が聞こえている気がする。明るい太陽が生み出す影が、妙に異様な形に見えてくる。

堪らず暗闇へ入り込んだ。膝を抱えて、耳を塞いだ。
ああ、そうだ。これでいい。いっそ最初から光も何もかも無視してしまえばいい。誰かといるから自信がなくなるんだ、怖くなるんだ。なら最初から、自分だけの空間にひとりぼっちでいればいい。

でも。
でもやっぱりどうしようもなく怖くなる。物心ついたころから大勢と過ごしてきた私にとって、完全な独りは経験したことなどなくて。
この暗闇には自分しかいない。自分だけの世界だから怖いことなんてない。独りでいればいい。そうは思っても、やっぱり独りは不安で怖くて仕方がない。自分で入り込んだこの暗闇すらも、段々と恐怖の対象になる。

どうしたらいいの。ここは怖い。独りが怖い。ここから出たい。でも、ここから出たって私はどうしたらいいの。みんなは私のことが嫌いなのに。嫌われながらみんなのいる世界へ行くの?嫌だ、嫌だ。

嫌だ。誰か、誰か、誰か。
皆に嫌われているかもしれない。根拠もない恐怖に駆られる。それが怖いから独りでいるのが安全だと考えているくせに、独りでいることが怖くて。独りを望んでいるのに、怖くて誰かに助けを乞うている。なんて矛盾しているんだろう。ああ、こんな人間だからだめなんだ。



こん、と小さい音がした。何かが来る。何。なに。
細い光が差し込んでくる。だめ、やだ、開けないで。…違う。助けて。誰か。

ゆっくりと暗闇の世界は開かれる。ゆっくりだけどそれはとても呆気ない。あっという間に光が差し込む。暗闇に慣れた目にはとても眩しくて、思わず目を閉じた。



「主、」



耳を塞いでいたのに、慣れた声が塞いでいた手をすり抜けて耳へと入り込む。閉じていた目を光に慣らすようにゆっくりと開ける。
顔を上げると、そこには長谷部がいた。膝をついて、身をかがめて、薄暗い私の世界を覗き込んでいる。



「お待たせしてしまいましたね」



申し訳なそうに微笑んでこちらに手を伸ばす。
耳から私の手がそっと外された。そのまま手を引かれたというのもあって、私の体は暗闇から引っ張り出された。

いや、本当は違う。いくら長谷部でもこんなに軽い力で私を引っ張り出せるわけがない。私が…、私が自分の意志でここから出たのだ。それを長谷部は少し手伝ってくれた。
そのまま私は長谷部にしがみついた。それと同時に、目から一気に涙が出た。泣きじゃくる自分はとても格好悪いと思った。でもどうしても耐えられなかった。長谷部は私を支えるように、控えめに腕に手を添える。



「大丈夫ですよ、主」



耳慣れた声が耳に響く。



「ここにいる連中は、皆、あなたのことを嫌ってなどいませんよ」



うそ…。



「あなたがいるべきは、こんな狭い押入れの中じゃありません」



だって…。



「独りではありません」



…うそ。



「俺がいます。もし…、もし俺が頼りないとおっしゃるならば、他の連中もいます」



……。



ひくひくと喉が鳴るが、涙はある程度落ち着いていた。気持ちもすっかり落ち着いていた。
どうしてあんなに気分が落ち込んでいたんだろう。押入れなんかに入っていたんだろう。根拠のない不安に、あんなにも怖くなったんだろう。さっぱりわからない。けほ、と小さく咳をして口を開く。



「長谷部は、頼りなくなんかないよ」



長谷部の服から手を放し、手の甲で残った涙を拭った。



「他のみんなもそう」



みんな今までずっと、私に力を貸してくれていたんだからその実力は私が一番わかっている。みんなのことを誇りに思っているんだから。そんなこと言わないで。
そう言ってみると、長谷部は困ったように笑う。



「俺たちも、主に同じことを思っているんですよ」
「うん…?」
「主はずっと、俺たちに力を与えてくれています。あなたの力も主としての器も、本丸の皆が一番わかっています」



長谷部がハンカチを取り出し、私の目元に押し当てる。



「皆、主のことを誇りに思っていますから、ご自身を追い詰めないでください」



今自分が言ったことをそのまま返されて、それがとても胸に響いた。
私は、みんなが誇りに思えるような人間であるのか。そう思ったら収まったはずの涙がまたこぼれそうになったけど、そのままハンカチに滲みこんでいった。

情けないなぁ。もっと、もっと大人にならなくちゃ。
普通に過ごしていたら中学生くらいである私は、まだまだ子供だった。
自分ではもっと大人になれたつもりでいたのになぁ。



「顔を洗いましょう、主。立てますか?」
「うん…」



立ち上がって、お互い何も言わずに部屋を出た。
廊下に出て長谷部に付いて歩く。とりあえず洗面所に向かうのだろうと思うと、曲がり角から白い影が飛び出してきて驚いた。



「あ!あるじさま、やっとみつけましたー!」
「今剣…!」
「おやつのじゅんびができたから、よんでくるようにいわれてたんです!さぁ、いきましょう」
「今剣、主は今、」
「いいよ長谷部、大丈夫。長谷部も行こう?」



止めようとした長谷部を私が止めた。今剣に手を引かれる私はそのまま広間へと連れられる。

広間の襖を開けて中へ入ると、本丸のみんなが揃っていた。なんだろう、いつもはおやつの時間にこんなに全員が揃ってはいないのに。



「きょうのおやつはあいすくりーむなんです。いろんなあじがあるから、じゃんけんできめるんですよ!」
「ああ、そういうこと」



欲しい味が被っているのか、既に何人かの間ではじゃんけんによる争奪戦が始まっていた。



「あ、主君!主君はなんの味にしますかー!」



こちらに手を振ってくる秋田に、チョコレート味がいいなー、と返事をした。



「あるじさま、ちょこれーとあじはおいしいですか?」
「うん、すごくおいしいよ!」
「ぼくもたべてみたいです!」
「お、じゃあ人数によっては今剣は敵になるね」
「まけませんよー!」
「わっ」



今剣に引っ張られ机のほうへ連れていかれる。
長谷部を置いてきぼりにする結果になっているのが申し訳なくなり振り返ったけど、長谷部はとても安心したように笑っていた。どうしたんだろう。

机に近づくと、刀剣男士たちの賑やかさが耳に心地よかった。短刀も脇差も打刀も、太刀も大太刀も槍も薙刀も。精神的に私よりはるかに大人だろう者たちも、容赦なく勝った負けたと騒いでいる。
目当ての味を手にできた者は既に食べ始めているし、ちくしょう負けかよ!と兼さんが悔しそうに声を上げるし、その横では勝利者であるらしい清光がひらひらと手を振っている。
余った味で構わない組らしい、鶯丸や同田貫や大倶利伽羅とかは争奪戦を横目にお茶を飲んでいる。
その横では、お酒に合いそうな味だねぇと次郎がアイスを食べながら言っているし、太郎は興味津々にアイスを口に運んでいる。

そんな光景にひどく安心した。心に落ち着くものがある。
賑やかにおやつを楽しみながらもみんなは私を見る度、やっと来たか、早くしないと溶けるよ、主は何味?、主ーこれおいしいよ。いろいろな言葉をかけてくれる。

私はみんなが大好きだ。とてもとても、何物にも代えがたいと思える。それくらいみんなが大好きだ。
暗い気持ちなんてすぐにでも吹き飛ばしてくれる彼らのことが、私はとても大好きだ。
だからきっと、それでいいんだ。私がみんなのことを好きだから、私はここにいたいんだ。日の当たる場所でみんなと一緒にいたいんだ。

さて、チョコレート味の争奪戦に参戦しようか!



*****



「あの子はどうだい?」



大勢の刀剣男士たちに囲まれる主人を遠目に見ていると、後ろから歌仙がやってきていた。潜めた声には長谷部も同じ声量で返す。

あの子。
歌仙の言うそれが主人のことだというのは言われずともわかる。



「ああ、大事ない」
「…そうか」



安心したような歌仙の顔に、自然と長谷部もつられた。

今の主人は、人間が成長する過程において難しい時期であるらしい。心身共に成長しているからこそ起こる現象があると。
それを支えなくてはいけないというのはわかっていた。それがうまくできているかどうかは生憎長谷部は量ることはできないが、少なくとも先ほどよりも主人は落ち着いている。それに安心した。



「…人の子というのは、難しいものだな」
「難しい存在なのは僕らも同じだろう」



ただあの子は“大人になる”のが僕らとは違うところだ。



あの不安そうな顔も、それによって泣き出すことも、主人が成長している証でもある。
しかしながら不安に駆られるということは、その不安を失くすことで、より良い人間になる余地があるということだ。
主人が不安を抱いた顔を見るのは痛々しい。だが自分たち刀剣男士にとって、主人の成長はとても喜ばしい。

歌仙の一言に、ああ、主人は成長しているのだなと長谷部は小さく笑った。



(そんな思春期の嵐)





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