初めて人を斬った。 本来の意味での自分である刀剣をもってして、それを振るい、人を斬った。それも、女を。 肩から脇腹にかけてをざっくりと斜めに斬られた女の体は血に染まっている。しかしながら苦しげな浅い呼吸はあって、まだ女は生きているのだとわかる。 「娘よ、…まだ、生きているか?」 倒れた女の傍に膝を付き、三日月は小さく声を出した。それに答えるように、女の目が薄らと開く。 「み、かづき…あり、がとう…ござい、ます」 斬られたというのに礼を言うなど、おかしな娘よ。 だがしかし、これは二人のなかで約束されたことだった。いつかの日に交わしたその約束が果たされる日が来た。それが今日だった。それだけのこと。厳密に言えば、約束というよりも娘が願ったことを三日月が叶えたというほうが正しい。 都では疫病が流行っていた。娘はそれに侵された。治療や加持祈祷など専門外である三日月にとってはどうしようもなく、残り少ない命を燃やし尽くした娘は三日月が斬らずとも風前の灯だった。 「…これで、よかったか?」 「は、い…」 娘は満足そうに微笑んだ。 本体である刀剣を持つ手が震えているのに気づいた。かたかたと小さい震えが止まらない。先程の、人の肉を斬った感触、流れる鮮血、床に倒れ行くこの娘。全てのことが初見だった。本来の自分の役割はこういうことなのだとわかっていても、情けないことに動揺した。 これが俺の役割か。随分と、血なまぐさいものだな。 娘の口がわずかに開いたが、なにも言うことはなかった。 ゆっくりと目が閉じられた。ああ、この娘はこと切れたのだなと、妙に冷静な自分がいた。―――初めて、人を殺めた。 まだ温かさの残るその手を取る。どうしたらいいかわからなかった。娘はもうしゃべることはない。わかっているが、どうしたらいいのか教えてほしかった。 娘の手に、ぽたりと水が落ちる。…なんだ、これは。 どうやら自分の目から流れ落ちてくるらしい。そうか、これが娘の言っていた、涙とかいうものか。人の目からは水が出る。不思議なものだとぼんやり考えた。 自分は今、悲しいのか。笑うことは娘が教えてくれた。それと対を成す、悲しいという感情もあると教えてくれた。だがそれを実際に感じたことは今までなかった。娘といれば、いつだって三日月は温かくて幸せだった。 乱暴に刀身の血を拭って鞘へ納める。 横たわる娘を起こし、自分の腕に収めた。娘の口元に流れた血の一筋を指で拭う。女が、顔に血などつけるべきではない。 「娘よ、お前は、美しいな」 娘はよく三日月に対して美しいと言ってくれたが、それはこの娘も同じだったのではないかと思っている。 例え、三日月がこの廃れた屋敷とこの娘しか世を知らなかったとしても、それが三日月にとっての全てだった。だから三日月には、この娘が世で一番美しかった。 美しいものを人は愛でるのだと娘は言っていた。なら、きっと自分も娘を愛でていたのだろう。 ああ、もっと、いろいろなことを話しておくべきだったな。 俺はお前を美しいと思っていた。共にあることを幸せだと思っていた。時折俺のなかの全てを、お前が埋め尽くすことがあった。そんなことをもっと話しておきたかった。 娘の頬に当てた自分の手が、薄れていることに気付く。 娘の奇妙な力で人の姿を得た三日月は、娘の命が切れた時は自分も刀剣に戻るとわかっていた。そうか、俺も消えるか。 娘の手を自分の頬に当て、まだ残っている体温を感じる。着物の袖がずり落ち、娘の細い腕が露わになると、無意識にそこへ唇を当てていた。もうすぐ自分は消える。正確には人の姿ではいられなくなる。そう思ったら、自然と娘の顔に近づいていた。 少し冷たくなっていた唇は、三日月のそれが触れたことでわずかに温かさを取り戻す。ほのかに血の味がした。 なぜそれをしようと思ったのかはわからなかった。ただただ、触れていたかった。流れる水が止まらないまま、娘の体を抱きしめる。 「娘よ…、次は、俺の願いを叶えてくれ」 頭をゆるりと撫でて肩へ押し付ける。 ―――お前を斬ったときは、どうかそのまま俺を抱いて死んでくれ。俺が望むのはそれだけだ。 ―――ええ、きっと。 ―――叶えてくれるか。嬉しいことだ。 互いの願いを聞いた、いつかの日。 徐々に体が軽くなっていくような気がした。娘を抱く腕も、もう消える。 一番に望んだことはこれだが…。すまんな、俺は少々欲深だったようだ。人でなくなるこの瞬間、もう一度、俺を見てほしかった。俺の名を呼んで欲しかった。 閉じられた目と唇に、もう一度ずつ、ゆっくりと自分の唇を押し当てた。 …ああ、そうか。これが、そうか。 触れた唇が離れた瞬間、結論が出た。そのことに、三日月は薄らと笑った。同時に、支えの無くなった娘が床へと倒れる音がする。潮時が来たのだとわかった。覚えていられるのはそこまでだった。 その日、初めて人を斬った。 その日、初めて人を殺めた。 その日、初めて人を恋しいと、―――あるひとりの娘が愛おしかったのだと気づいた。 |