平安の時代にはまだ時間遡行軍が現れたことはなかった。 しかしながら、いつどの時代に遡行軍が現れるかわからない。遡行軍側がいつ出現しても備えられるよう、出陣という名の見回りをしろと本丸に通達があった。 あくまでも見回り、必要以上に刀を振るうなという指示の元、自分たちの主は部隊を組んだ。 時代は平安。洋装の者を送るわけにはいかない。ならば和装の者、ひいてはこの時代に生まれた者たちを送ったほうが都合がいい。そういった理由で三日月も部隊に組まれた。 都を歩く部隊の者たちは、町の様子に馴染んでいる。今のところ異常はない。 「そろそろ引き上げ時かな。穢れた気も感じられないからね」 「ああ、そうだな」 石切丸の言葉に三日月は同意し角を曲がる。曲がった先には、既に集合地にいた岩融や今剣がいる。 「おお、戻ったか。主から、異常がなければ引き上げろと指示が来た。そちらはどうだった」 「こちらも問題はなかったよ」 石切丸が答える間ふと辺りを見回して、三日月はこの周辺に何やら見覚えがあることに気付いた。 「ここは…」 この地は都。時代は平安。 そうだ、どうして、気づかなかった。 「みかづき?どうしましたか?」 「どうした?戻るぞ」 本丸へと続く空間が開かれようとしていたが、三日月はそちらとは違う方向へと足を進めた。 そうだ、この町は、この道は。三日月は後ろの仲間たちを振り返る。 「すまん。…俺に少しだけ時間をくれ」 仲間の返事を待たず三日月は足を速めた。 この時代はまだ時間遡行軍が現れてはいない。頻繁にこの時代へ見回りに来ることはないだろう。ましてや、いつもこの地に来るとも限らない。 進んだ先には廃れた屋敷が見えた。かろうじて人が住めそうな。立ち入ろうとすると、後ろから男に声をかけられた。 「そこのお方、そこには入らんほうがよいかと」 「…ほう、なぜだ?」 「この家から流行り病が広がったってもっぱらの噂でね。物の怪が住んでるなんて言われてる。あなたのようなお綺麗な貴族の方が入る場所じゃない」 ああ、ではやはり、ここで間違いない。 親切な男に三日月は笑みを返した。 「教えてくれて礼を言う。だが心配は無用だ。俺はここに用がある」 「へぇ、物好きなことで」 去って行った男を見送り、三日月は屋敷の敷地内へ足を踏み入れた。そうだ、覚えている。 寝殿へと入ると、床がきしりと音を立てた。 今自分がいるこの時代のこの日は、あの時のいつごろにあたるのだろう。まだいるのだろうか。不安で押しつぶされそうだ。自分の意志でここまで来たくせに、いざ来てみれば期待が薄れる。 「誰か、いないか?」 見覚えのある造りと廊下。記憶をたどりながら不躾にも母屋へと入ると、かたんと何か音がした。 「どなたですか?」 目を向けた先は御帳台で、そこから聞こえる声。こちらを覗く者。女だ。 三日月の体が震えた。―――いた、いた。 駆け寄りたい気持ちを必死に抑えて、現在の距離を保ったままその場に片膝をついた。 「この家の主か?」 「はぁ…一応。父上も母上も亡くなっております故、私しか残っておりませんが」 俺の存在には驚いていない。ならば、会う前か。まだ、この娘は一人なのか。いや、驚いていないのはこの娘の性格もあるな。大らかな娘だった。 「どちらさまでしょう?お着物からして、貴族の方でいらっしゃるようですが…」 「ああ、いや。俺は貴族ではない。ただの男だ」 三日月は腰から刀を抜き、右側に置く。籠手も手甲も、自身を守るための防具もすべて外した。女はそれに目を見張っていた。こちらに敵意がないのだということは伝わったらしい。 そう、今は。ただの男だ。 刀は置いた。刀を振るうために生まれた刀剣男士のつもりはない。妖の類、神の類である付喪神のつもりもない。 「そちらへ寄ってもいいか?乱暴はしない」 女は状況を図りかねているようだが、小さく頷く。近づいた三日月は、女の正面に再び片膝をついた状態で身をかがめた。 近い距離にいる女に、三日月はやはりな、と一人で納得した。 「娘よ」 「はい」 「お前は、美しいな」 「はい…?と、とんでもないっ」 「そう言われないか?」 「家からは出ませんので…殿方の目に留まることなどないのです。あなた様が初めてです、そのようなことを言ったのは」 「あっはっは、それはいい」 お前が美しいというのは、俺がわかっていればいい。他の男に見せるのは惜しい。 このまま話をしていたかった。できることならずっとずっと。だが今の三日月にそれはできない。待たせている者たちがいる。今の自分はあのころと違って役割がある。人の肉体を得た本来の意味を発揮している。 「娘よ、無礼は承知だが、許してくれ」 「あ、の…っ」 距離を詰めてそのまま女を腕に包んだ。女の頭を肩に押し付けると女の両腕は宙を彷徨った。背中を軽く叩いてやると、かちこちに固まっていた体から少しずつ力が抜けるのがわかる。 ああ、懐かしいな。本当に。 できることなら連れていきたい。三日月は女の行く末を知っている。あんなことになるくらいなら、ここから連れていってしまいたい。彼女をこの時代から連れ出したところで、歴史に大きな変動は起こらない。 それでも、できないのだとわかっている。例えわずかなことであっても歴史を変えてはならない。どこで歯車がずれるかわからない。 わかってはいても、だ。 会えたことが嬉しくて、また離れることが悲しくて、今の三日月が見えないところでまたこの娘がいなくなるのかと思うと、 「泣いて、いらっしゃるのですか…?」 悲しくて仕方がない。 「…なに、気のせいだ」 詰まりそうになる声でそう返すと、ゆっくり背中に腕が回るのがわかった。 それはとても嬉しかったが、あまりこうしていると本当に箍が外れそうだ。体を離すと女はこちらを見上げてくる。 「お美しい殿方、あなた様のお名前はなんといいますか」 「俺の名は、三日月宗近という」 「まぁ、素敵なお名前でいらっしゃる。その目にも月が宿っているのですね。不思議な方です、三日月宗近殿」 「やぁ嬉しいな、褒めてくれるか」 「ああ、私の名もお教えしなくてはいけませんね。私、は…、」 言葉を紡ぎかけた女の言葉を三日月はさえぎった。女の口に人差し指を当てて笑みを向ける。 「名乗らなくていい。知っている」 今でも、ちゃんと覚えているぞ。大丈夫だ。名乗らないでいてくれ。 女は不思議そうに首を傾げる。なぜ三日月が名を知っているなどと言うのかということだろう。 女から離れた三日月は、外した刀やら防具を手に取る。これ以上いたら、自分は戻りたくなくなってしまう。 「急な訪問、失礼をしたな」 「あ…いえ…。お帰りですか?」 「ああ。見送りはいらん」 立ち上がり再び腰へと刀を差す。 「…娘よ、この屋敷に蔵があるな」 「あ、はい」 「そこへ行ってみるといい。なぜとは訊かないでくれ」 この娘の力、俺は知っている。ならばあそこへ行けば、あのときが起こるはず。 今にして思えば…そうか、俺がここで、三日月宗近と名乗ったからか。 離れがたい。何よりも離れがたい。 どうして連れていけない。だが連れていけば、遡行軍と同じこと。きっと自分は後悔する。連れていかずとも後悔はするのだろうけれど、連れていかないのは三日月が自分で選んだことだ。 またいつか。それはいつだ。わからないし保証もできない。だから曖昧なことなど言わない。だがせめてもう一度だけと、未練がましく女へ近づきもう一度抱きしめた。 「俺が、不快ではないか?」 「いいえ、まったく」 「そうか、それはよかった」 それは相手が三日月だからなのか、女が無防備で大らかなだけなのか。後者の要素が強い気がしたが、せめて前者の要素もあって欲しいと三日月は思う。 会ったばかりのときは、ただただ自分の持ち主として慕っていただけだった。ずっとそう思っていた。だがあの別れのとき、それ以上の感情があったのだと気づいた。今でもそれは消えることなく、これだけの月日を過ごしてもまだこれほどだ。今日会ってしまって、もっと深くなった気さえする。 女を肩に手を置いて、三日月は口を開いた。 「筑波嶺の、」 ―――筑波嶺の 峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる 「他人の受け売りの和歌だが、受け取ってくれ」 今の主人のいる場所、本丸にある書物で見つけた。この時代には丁度いい伝え方だ。 ぽかんとした表情の娘を見て、三日月は小さく笑う。寝殿を下りようとすると、後ろから着物を引きずる音が聞こえた。 「み、三日月殿…!」 「敬称は不要だ、娘よ。ではな」 三日月は足早に屋敷を去った。 お前はまた会う。俺ではない俺にな。 その後にどれだけの別れがあろうとも。 俺といる時を、どうか幸福に生きていてくれ。 (―――筑波山から流れるみなの川が、小さな流れから次第に深い淵となるように、俺の恋も今はとても深いものになってしまった) |