つくづく社会というのは理不尽だ。
どこで情報が間違ったのか、私のミスではないのにどうして責任が私に回ってくるの。上司の剣幕を見ては、私じゃないですと言えない。だから口を噛みしめて、すみませんと頭を下げた。

結果、残業を余儀なくされた。今日は、約束があったのに。
約束の時間は定時で上がることを前提としている。
同僚が次々と帰り支度をしていく中で、残業確定の私はスマホ取り出す。迷わずメール作成画面を開いた。

ごめんなさい、残業になってしまった。だから今日の約束は無理になってしまった、と。そういった内容を送信した。
確実に光忠を長時間待たせることになる。そんなの申し訳ない。
ひとつため息をついて、残業に取り掛かる。しばらくすると、スマホが光った。



“大丈夫。待ってるよ”



返ってきた短い一文に、胸がざわついた。
でも嬉しいけれど、それよりも申し訳なさが勝ってしまうから。



“三十分過ぎても来なかったら、先に帰っていいからね”



わずかばかり自分に猶予を与えることにした。送信して、スマホをバッグに放り込む。待ってるという優しさを糧に、再び残業に手を付けた。



手早くやっていたつもりだけどそれでもやはり、少ない猶予までに終わるものではなかった。



「やっぱり無理だなぁ…」



自嘲か悲しみか、よくわからない意味合いのため息をついて書類とパソコン画面とのにらめっこを続けた。

ようやく終わらせた頃はもうすっかり遅くなっていた。これだけ過ぎてしまっていたなら、いっそ潔く諦めもつく。
のろのろと会社を出て、いつもとは違う時刻の電車に乗り込んだ。そこから先はいつもどおり。駅を二つ通過して、その駅で降りて、エスカレーターで構内へ上り、改札を出て家路を歩く。そのはずだったのに。

改札を出たあとの出口に、見覚えのある長身の黒スーツが立っていた。…なんで。
ふと顔を上げて周囲を見回す男の目線が、少し離れた距離にいる私で止まった。気づいた彼はぱっと笑顔を見せて、近づいてくる。なんで。



「残業、大変だったね。…お疲れさま」
「それは、そう、だけど…。…なんで?だって、」



三十分過ぎたら帰っていいとメールを返した。見ていないのだろうか。
そう尋ねると、光忠は首を横に振る。



「ちゃんと見たよ」
「ならどうして?こんな、長い時間…」
「君こそ、僕が最初にした返信、見てなかった?」



言われて思い出す。“大丈夫。待ってるよ”という一文。
そう言ってくれるのは嬉しいけど、待たせるのが申し訳なかったのに。



「申し訳なく思わなくていいよ。君は三十分過ぎたらって指定までした。待ってたのは、僕が勝手にしたことだよ」
「そんな…。帰る権利があったのに!」
「そうだけど、義務じゃないだろう?待ってる権利と自由があったからね。勝手に行使させてもらったよ」



私が言い返せない一方で、光忠は悪戯っぽく笑う。

泣きたくなる。お疲れさまと労ってくれたことが嬉しいのか。待っててくれたことが嬉しいのか。両方だろうけれど。
不可抗力とはいえ約束を違えた私など放って帰ってしまえば、肌寒い空の下でこんなに時間を無駄にすることもなかったというのに。
わずかに滲んだ視界を袖で拭った。ごまかすように口を開く。



「光忠、馬鹿じゃないの…寒いのに」
「それに関しては否定のしようがないなぁ。…でも、」



君に会いたかったんだよ。お疲れさまって、言ってあげたかった。

そう言って眉を下げた光忠は、私を労うように頭に手を乗せた。ずるい人だ。付き合ってるわけではないのに、こんな素敵な言葉と行動のオンパレードでは嬉しくならないわけがない。



「待っててくれて、ありがとう、ございます…」
「うん。…さて、君には愚痴があるだろうし、お酒でも飲む?」
「花の金曜日だし、そうしたいな」
「オーケー、バーでも行こうか?」
「愚痴を聞いてくれるなら、居酒屋のほうが好き」
「わかった。じゃあ行こう」



居酒屋なんて、少し可愛げがなかっただろうか。でもバーなんておしゃれな所では、盛大な愚痴は言えない気がした。
駅を出て、お店へと歩き出す。時間も時間なので人どおりも少ない。光忠が徐々に斜め前に移動し、距離が開いていく。少しだけ疲れているせいか、いつもより私の歩みが遅いのかもしれない。

俯きがちで歩いていると、視界に自分のではない手が映り込み、そっと手を取られた。
突然のことに顔を上げると、光忠は微笑んでいる。
おかしい。私たちはこんなことをしていい関係になっていないはずだ。



「…光忠、酔ってる?」
「まさか、素面だよ。嫌だったなら僕の自惚れだから、離すよ」



自惚れって、いったいどういう方向への?
尋ねたかったけれど、飲み込んだ。

余裕そうに見えた光忠の手が、少しだけ震えていた。寒いからではない。緊張しているような、怯えているような。表情も、いつのまにかそれを反映した面持ちに変わっていた。
今のこの場に託された意味を理解する。わからないほど、鈍くはない。心臓が早鐘を打ち始めた。



「…自惚れていいよ。その代わり、私も今、光忠のせいでだいぶ自惚れてるけど」
「…君も自惚れていいよ。じゃないと僕、格好悪くて情けないことになるから」



そんな顔しないで。いい男が台無しだよ。



「情けないことになんて、ならないよ。私がさせない」



手を握り返す。聞いた光忠はぐっと口を噛みしめたと思うと、空いている手で顔を覆った。黒い大きめのショルダーバッグが肩からずり落ちる。



「え、ちょ、光忠?」
「ごめん…。これ、喜んでいいかい?」
「…うん」



顔から手を外した光忠は、真っ直ぐに私を見た。

日本人ならばほとんどがそうであろう黒い目。私はもちろん、彼も例に漏れず黒い目のはずなのだけど。
なぜだか今、―――彼の目が綺麗な金色に見えた。金…?
そんなわけがないとまばたきをすると、やはり気のせいだったか、黒い双眼が私を見ている。



「君が、好きです」



手を握ったまま面と向かって言われた一言に、私もです、と言う以外に私は回答を知らない。
そう返事をすれば、嬉し泣きでもするんじゃないかと思う程に光忠の表情は輝いていた。




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