三日月宗近。私が名前を教えられた刀。私が名付けた刀。 美しくて温かくて、とても大事な刀。 「三日月、お茶でもいかがですか?」 「うむ、いただくか」 「熱いので気を付けて」 「ああ。…ふむ、この菓子はうまいな」 「そうですか、お口に合ってよかったです」 お菓子を食べ終えた三日月はお茶の入った器を傾けた。 刀とはいえ、不思議なことに今の彼は人の姿をしている。この刀を手に取った時いったい何が起こったのか、私にもよくわからない。 三日月は人ならざるものだが、穢れた嫌な気などは全く感じない。むしろ清らかな気を生み出している気さえする。そのせいなのかはわからないが、一人でいる時よりも、この廃れた屋敷はずっと居心地が良いと感じた。 家族が流行り病に倒れてしまう前も、家族から愛情は受けて育った。 だけどとても窮屈だった。書物を渡されそれを読んだりもしたけれど、下級貴族の娘である私が勉強などしても得にはならないと言われた。家の外に出ることはほぼなく、いつも家の中にこもりきり。 そのように育ってきた中で、親も家臣もある日突然流行り病にかかり亡くなってしまった。あまりにも突然に。 急すぎるその病を気味悪がったのか、親戚や異母きょうだいの家も、残った私を引き取ろうとはしなかった。それもあって、適齢期ながら私は嫁に行くこともなく今に至る。 一人になり、同時に私は外に出る自由も手に入れたけど、不思議とこの家や都を出ようとは思わなかった。特に行く当てがないというのもあったが。 一家が全員死んだ家、呪われているに違いない、物の怪でも住んでいるのではないか。噂に尾ひれがついて、この家は誰も近づかなくなった。 だけども一人というのはそれはそれで退屈だった。今は、そんなことを思ったりしないけれど。むしろここにいてよかったのだと思えた。 三日月といるととても温かい気持ちになる。心穏やかになる。一緒にいたいと思える。 「娘よ、ひとついいか?」 「なんでしょう」 「俺とここにいて、いいのか?」 急な質問に何と答えたものかと思った。どういう意味合いだろう。 「と、言いますと?」 「いやなに、人並みに結婚し暮らすのが恋しくないのかということだ」 「あまり」 「そうか」 少しだけ茶の器を傾けて、三日月に向かって微笑む。おかしなことを訊く。 「結婚が幸せとは限りません。多くの妻のひとりとして過ごすよりも、三日月と過ごすほうが私にとって遥かによいのです」 「俺と共にあること喜んでくれるか。やぁ嬉しいな」 「それに、あなたのような美しい殿方を一度でも見てしまえば、他の殿方など目に入りませんよ」 「あっはっは、それはいい。持ち主に大事にされるのはいいことだ」 そう言って三日月は笑う。出会ったときは笑うということさえ知らなかった三日月だが、今の三日月はとてもよく笑う。 結婚か。私は評判になるような美しさを持っているわけではない。でもいつかは誰かしらの殿方と結婚するのだと思っていた。父上の提示した相手であれ、政略的な結婚であれ。 今はあまり興味もない。三日月がとても美しい姿をしているというのもあるが、結婚したとて女が窮屈な身の上であることは変わらない。ならば、ここで三日月といるほうが私にとっては何よりも幸福だ。 「大事にしてくれる主には、何かを返したいものだな」 「あらまぁ、まるで人のようなことをおっしゃる」 「今の俺は人だぞ。不思議なことにな」 「ええ、本当に」 「して、娘よ。日頃の恩を返そうと思うが、何か望むものはあるか?」 「ものは、特に」 「ふむ、では言い方を変えよう。何か望むことはあるか?」 「望むこと…」 三日月は望みをかなえてくれるらしい。私は何を望んでいるのだろう。 器に入ったお茶を揺らして少しだけ考えた。そして思いついて、三日月のほうを向く。 「では、ひとつだけお願いしたいことがあります」 「ひとつと言わず、いくつでも叶えよう」 「そんなことを言って。できることにも限度というものがあるでしょう」 「まぁ、ほらであっても大きいことはいいことだ」 「まったく…」 器の大きい人だ。 「して、願いはなんだ?」 「ええ。お願いしたいことがあります」 器を置いて、三日月のほうへ寄る。 とんとん、と三日月が持っている器を軽く叩くと三日月は器を置いてくれた。そこから何も言わずにじっと見上げてみる。本当に綺麗な人だ。つい目を奪われる。 三日月は少し首をかしげたが思いついたように私の腕を引いた。 三日月の腕に収まると、とても心が安らいだ。心地よい空気を纏う人だ。 「望みはこれか?」 「いえ、これは、…ああ、これもたしかに望んでいましたね」 「そうか、ではひとつ叶えることができたな」 「先程いくつでも叶えてくださるとおっしゃいましたよね?」 「ああ、言った」 「では、もうふたつ」 思いついたことはふたつ。 願いというより、これは私のわがままかもしれない。三日月は了承してくれるだろうか。不安と同時に心が陰る。 三日月の本体と言える刀の柄に手をかける。少しだけ鞘から引き抜かれた刀身が銀色の輝きを放つ。 一つ目の願い。 「私が生を終える時には、この美しい刀身で私を斬っていただきたいのです」 「なにを、」 「この先、私が病に侵されようと、老いて衰弱しようと、…最後に私の命を絶つのは、あなたであって欲しい」 いつか私も死ぬ時が来る。それは生き物の運命だ。そのことに抵抗はない。 しかしながらどうしても思うのだ。命の最後はこの人に捧げたいと。 三日月は驚いたような、戸惑ったような表情を浮かべた。 「斬ったら、そのとき俺はどうなる?」 「おそらくは、人の姿ではなくなるのかと」 私の奇妙な力で、三日月は人の姿を持つに至った。それならばきっと、私が死ぬときにはその力も同時に消えるのだろう。三日月は再び一本の刀となる。 三日月は納得したように頷いた。 「わかった。そのときが来たら叶えよう」 「ありがとうございます、三日月」 「もうふたつと言ったな。残りひとつはなんだ?」 「ああ、そうでしたね」 引き抜いていた刀身を鞘に戻し、私は三日月の頬に手を添えた。 二つ目の願い。 私のわがまま。欲深い人間の哀れな心。自分を愚かしいとも思う。でもどうしても。 「あなたという刀を私のような女が縛り付けるのはよくないと思うのですが…。…私が持ち主である限り、あなたが私を斬り死ぬときまで、私と共にあってください。三日月宗近殿」 どうしても、三日月と最後まで共にありたいと思ってしまった。 どうして私はこれほどに彼に執着するのだろう。この人といたいと思うのだろう。 三日月が美しいから?もちろん理由の一つではあるけど、核心ではない。 三日月が私を大事にしてくれるから?いつも傍にいてくれるから?触れ合ってくれるから?たくさんの理由がある。それを全て掛け合わせると、どうなるのだろう。 だが同時に不安もあった。私は女だ。元々刀を持つべき者ではない。 それでいて三日月はとても美しい。人の姿はもちろんだが、その拵えも刀身も目を見張るほど美しいのだ。 だから怖い。私のような女が、三日月をここに縛り付けていいのかと。私のような持ち主が、三日月宗近という刀を持っていていいのかと。不安で仕方ない。 「あいわかった。叶えよう」 ところが、降ってきたのはとても意外な言葉だった。まさか、了承された…。 驚きで一瞬言葉を忘れたが、すぐに顔が笑ってしまうのに気づく。嬉しい。 「そうだ。俺からもひとついいか?」 「私にできることならば」 「ああ、主である者に叶えて欲しい」 三日月が私の願いを叶えてくれるというならば、その持ち主たる私も、彼の願いを可能な限り叶えなくては。 私がそうしているように、三日月は手を私の頬に添えた。もう片方は背中に回される。 「お前を斬ったときは、どうかそのまま俺を抱いて死んでくれ。俺が望むのはそれだけだ」 そう言って私の髪を撫でる。 なんだ。それほどのこと、当然ではないですか。あなたは最後の時まで私と共にいてくれるのでしょう?ならば私はそれを喜んで叶えましょう。 「ええ、きっと」 「叶えてくれるか。嬉しいことだ」 そのまま三日月は私を抱きしめてくれる。 とても心地よくて、自然と笑ってしまう。 「奇妙な力を持って俺を得た娘よ、お前は今幸せか?」 「はい、とても」 不意に三日月と最初に出会ったときを思い出した。 正しくは、今ここにいる三日月ではない三日月と会った時の事。突然に現れて、私に「美しい」などと言ったりした。私を抱きしめてきた。少しだけ悲しそうな顔をした。蔵に行けと私に言った。 ―――私に和歌を一つ贈った。 あの時はほんの冗談だと思っていた。あの三日月が、今ここにいる三日月と何が違うのか私にはよくわからない。だけど和歌の意味ならわかる。 …ああ、そうか。私がここまで三日月といたいと思う理由がわかった。いくつもある理由の全てを掛け合わせて出てくる答え。 私はこの人に恋をしているのだ。 初めてこのような気持ちになった。これほどに誰かを求めて、傍にいて欲しいと思うなど。 そうか、これが恋というものか。なんて心地よい気持ちだろう。 『筑波嶺の 峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる』 いつか、あの時の和歌にお返しをしなくてはと思う。 今にして思えば、あの時出会って和歌をくれたあなたは、私に恋をしていたのですか?今のあなたは、どうですか? 少しだけ体を離して三日月の頬を両手で包む。三日月は私を抱きしめたままでいてくれる。お互いの額を軽くぶつけると心が温かい。どことなくくすぐったい気持ちになってしまう。三日月も同じなのか、目が合ってお互いに笑った。とてもとても、幸せな気持ちだ。 みかづき、三日月。三日月宗近。 私はあなたに恋をしています。 |