とても冷たい場所にいる。 冷えた金属のような、氷のような、水のような。 そこを流されるような、そうではないような、そこに揺蕩っているような。 苦しい。寒い。寂しい。悲しい。 だけども印がついたから、仕方がない。 嫌だったのだ。拒んだのだ。どうして手放さなくてはならない。 つらい。暗い。冷たい。恐ろしい。 あとどのくらい、もうどのくらい。ここに、ここで。 長い。永い。ながい。 とても冷たい場所にいる。 ***** ゆっくりと意識が浮上するような気がした。 中心に何かが生まれ出るような気がした。中心にできた何かは渦巻いて徐々に形を成し、それに感覚というものが加わる。 何度か覚えがあるものだった。これはおそらく、己の肉体が構成され、顕現を果たす時のものだろうと思った。 そこに強い力と意識が流れ込んでくる。力を貸して欲しいと、どうかこの声に応えてくれと。 呼ばれている。これに是と言えば自分はまた、人の肉体という器を得て感情も感覚も全てを持って顕現される。否と言えば、そうはならない。形を成し始めている肉体も、浮上しかけた意識も感覚も全ては再び冷たい刀に沈む。 是と答える義務はない。己には選ぶ権利がある。さて、どうするか。 前任の主…、審神者は天寿を全うした。持ち主のいなくなった本丸となり、自分も含め全ての仲間たちは今一度ただの刀となった。その後どうなったのかは知らないが、こうしてまた呼び出されることになろうとは。 流れ込んでくる霊力はとても温かい。聞こえてくる声は柔らかい。それに同調するように、己の力が湧き上がってくるような。顕現前に感じるこの霊力は、果たして主に相応しいかどうか。 まぁ、人の体も、人のために何かをすることも悪いことではないか。それは既に知っている。 …さて、始めよう。はてさて、己が力を貸したいと思える者であることを願うか。 浮上した意識と共に、ずしりと重みを感じる。人の体の重みだ。 形成されたか、久しいな。この感覚は。 ゆっくりと瞼を上げてみれば、暗闇から光が入り込んで目を突いた。鮮明な色が付いた世界に慣れようと何度か瞬きをする。落ち着いたところで、改めて目を開く。 映り込んだ自分の青い着物、腕、腰に携えた刀。膝をついた木目の床。 片方の腕が前に伸びている。その先を辿ると、自分の右手はそれよりも幾分小さい手と繋がっていた。その手をさらに辿ると華奢な腕へと続いていく。そのまま続く先に映ったのは、一人の女だった。 自分の中で何かがさざめいたような気がしたが、それが何かはわからない。だがこうしているということは。 「お前は…、俺の主か?」 そう問いかけると、目が合った女は目を細めて微笑んだ。 「太刀刀剣、三日月宗近殿ですね?」 「ああ、そうだ」 「私の呼びかけに応えてくださったこと、光栄に思います」 女は丁寧に頭を下げた。繋がっていた手がそっと離れていき、三日月の右手は自由になる。 呼び出されたということはこの女が審神者であって、同時に次の主人であるということだ。 久しぶりに名を呼ばれた。この名が付けられてから長く使い続けてきた。今は由来も出来、人の世にも残る己の号だ。 「三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ」 「ええ、どうぞよしなに」 嬉しそうに女は笑うと、頬には小さなくぼみができる。えくぼというやつだ。三日月も癖のように笑い返した。 視線を動かすと、彼女の少し後ろには見慣れた刀剣男士が控えていた。この男とも久しいな。三日月の視線に気づいた相手も、久しぶりだねと言うように目を細めた。 「主、これで顕現はすべて終了だ。多くの神降ろし、ご苦労様」 「いいえ。就任してすぐにこれだけの刀剣がいるのならば、これからのお役目に不安が無くなりありがたいことです。蜂須賀は他の方たちの案内や注意事項をお願いできますか。以前あなた方がお役目を果たしていたときとは、少々この本丸も変わっていますから」 「ああ、わかった」 「よろしくお願いします。三日月は今しばらくここで」 女の言葉にひとまず頷く。女から指示を出された蜂須賀虎徹は部屋を出ていった。おそらく、女の最初の刀として選ばれたのだろう。 距離を詰めた女が、三日月の前に膝をつき腕を伸ばす。伸ばされた手は三日月の胸の真ん中に添えられる。 「あなた方が人の体を得るのは初めてではないでしょうが、前任の審神者がお役目を果たしてから随分経っています。長らく時間が空いたので、付喪神の力と、その器である人の体がうまく同調しない恐れがあるのです。そうならないよう、私の霊力で少々チューンナップさせていただきますね」 「ちゅーんなっぷ…、聞いたことがあるな」 「調整、という意味ですよ」 少し楽しそうに女は笑う。また彼女の頬にはえくぼができた。 胸に添えられた手から、三日月の体に霊力が流れ込んでくるのがわかる。すると少しだけ体が軽くなる気がした。以前にも得た人の体だが、確かに内部でどこかしら噛みあわない部分があったようだ。それが全て正しく直され、先ほどよりも力の循環が良くなったのがわかる。 終わりました、と女は三日月から手を離す。そのまま向き合い、真っ直ぐにこちらの目を見てくる。 「改めて、この本丸の審神者となった者です。僭越ながら、天下五剣を始めとしたあなた方の所有者となりました。あなた方にとっては後任の主人となりますが、どうか私に力を貸していただきたく思います」 丁寧な物言いが、女の育ちの良さを窺わせた。 前任者のように信頼のおける人柄であるようだ。蓄積された記憶に残る、以前この本丸を動かした者を思い浮かべた。 「ああ。こちらこそ、よろしくたのむ」 「はい。…体の動きはどうでしょうか?」 言われて、確認のために立ち上がってみる。つられて女も立ち上がった。 腕を上げたり膝を曲げてみたり、鞘からは抜かずに軽く刀を振ってみたり。特に違和感は覚えなかった。 「少しは往時にもどったか」 「あなたはいつでも現役と私は思いますよ?」 「はっはっは、そうならばいいな。では、出るか」 「はい」 動きにも問題はなかった。ならば次は、先ほど蜂須賀が指示を出されていたようにここの案内やらがされるのだろう。そう思って部屋を出ようと、足を動かしたが女は動かなかった。 立ち止まって振り返ってみると、女の目は真っ直ぐ三日月を射抜いた。途端に体が固まる。何も特別な力などは働いていないのに、なぜか体が動きを止める。 「三日月宗近、私があなたにはじめましてと言わなかったことに、気付いていましたか?」 言われて気づいた。確かにその挨拶はされなかったが、さして気にすることでもなかった。何も言えずにいると、女はハッとしたように両手で頬を押さえる。 「ああ、以前とは化粧が全く違いますからわかりにくいかもしれませんね。一応、同じ顔形なのですけれど…」 何を言っている…、目の前の彼女は何を言っている? 思考を巡らせている頭は女の発言を意味の分からないものと認識しようとしているのに、なぜか体が中心からさざ波を立てるように沸き立つ。 何も言わない三日月に女はおどけたよう笑った。彼女はよく笑う。それに伴い、やはり頬には小さなえくぼができた。だが困ったように眉を下げて、彼女はゆっくり口を開いた。 「やはり、既に忘れてしまいましたか?」 何をだ。何を忘れていると、彼女は言いたいのだろう。ただのでまかせか? お前は、何者だ。 「…三日月宗近という刀剣に、初めて血を浴びせた女のことは、」 忘れてしまいましたか? 女の言葉は決して責めるような口調ではなかった。ただ確認したいというように、女は眉を下げて微笑む。 何かがはまり込む。足元が揺れているような気がする。手が震えていることに気付いた。 「お前は…」 その先の声が出てこない。女はどこか泣きそうにも見えたが、近づいてくることはしない。今の女と三日月との間にある距離。この境界を絶つか、越えるか、そんな決断を強いられているように女はそこから動かない。 「…千年も経っては、私のことを、」 |