それ以上は言われなかった。言えなかったというほうが正しいかもしれない。
距離を詰めた三日月は、女の体をこれでもかという程に抱きしめた。

――― …いい。もういい。何も言わなくていい。

見たとき、なぜ自分はわからなかったのだろう。そんな理由は簡単だ。ありえないと思っていたからだ。二度と叶わないと思っていたからだ。だが忘れてなどいるものか。忘れたことなど一度もない。初めて人の体を得たかつての平安の頃より、どれだけの月日が経とうとも。



「三日月…」



言われて気づくのも情けない話だが、女の声も顔も目も手も、ああ確かに知っているなと思わずにはいられない。
不意打ちだった。まったく予想などしていないときに、あまりにも唐突にそれは飛び込んできた。

少しだけ身じろぎして、女は三日月の頬を包み目を合わせた。瞼が熱くなり、久方ぶりに人の体の得て早々に、涙が目からこぼれ出た。
涙。涙は悲しいときに流れるものだと思っていた。思わず女に問いかける。



「涙とは、悲しいときに、流れるのではなかったか…?」



以前そう教えてくれたから。



「三日月は今、悲しいのですか?」
「いや、とても嬉しいのだがな…」



嬉しいのになぜ自分は涙を流しているのか。女も泣きそうなのはなぜか。
とても嬉しいはずなのに、涙がこぼれて頬と女の手を濡らす。



「教えていませんでしたね。嬉しくても涙が出る時があるのですよ」
「そうか…」



それならば納得だ。今の感情と涙は比例しているということだ。
それにしても、涙を流したのもいつ以来のことだったか。だが今はそんなこともどうでもよかった。

三日月は女の頬に手を添えた。ああ、本当に。



「よく来た…、よく来たな…―――娘よ」



主、とは呼ばなかった。呼べなかった。
腕に抱く女は今の三日月にとっては、主人でも審神者でもない。

疑いを向ける余地などない。気持ちが止まらない。自分の内が叫ぶのだ。そもそも疑いなどしなくとも答えは直接聞ける。



「はい、三日月宗近殿」



女が薄らと涙を浮かべて笑う。女の口が続けて言葉を紡ぐ。



「…恋ひ恋ひて、」



―――恋ひ恋ひて 逢へる時だに愛(うるは)しき 言尽(ことつく)してよ 長くと思はば



女が暗唱するように和歌を詠んだと思うと、手を動かして三日月の涙を拭った。三日月は瞬きを一瞬忘れた。呆気にとられたような自分を見て女は微笑む。意味はわかっているのでしょう? そう言っているように見えた。



「いつかの日にいただいた和歌への、返歌です」



いつかの日。それはいつだったか。

三日月にとっては数十年前の日。前任の審神者の下にいて、過去に渡ったある日のこと。

女にとってはおおよそ遥か昔の日。一人過ごした屋敷の中で、男に出会ったある日のこと。

だが二人の中で、それがいつの日かというのはわかっているのだ。あの日の、あの場所での、あの時のこと。



「…遅くなりました。あの和歌はもう、有効期限が切れてしまいましたか…?」



あなたはもう、あの時の気持ちは消えてしまいましたか?
女は暗にそう言っていた。そう思うのも無理はなかった。彼女にとってはいったいどれだけ昔のことなのかは三日月もわかっている。だが三日月にとってはそうではない。あの時女に和歌を贈った三日月は、遥か未来から来ていた。それは今この瞬間から数えてもほんの数十年前のこと。

あの時、女に会うまで気持ちは持ち続けていた。和歌を贈ってからもその後もずっと。刀剣男士としての役目を終えるまでもずっと。再びその役目を得た今も。
消えるものか。三日月は女を抱く手に力を込めた。



「まさか。消えるわけがないだろう」



侮ってくれるなよ。俺がどれだけ想ってきたか、お前は知らないだろう。



「…返歌を貰えて、嬉しく思う」
「そうですか。私も、とても嬉しいです」



女の声が涙声になった。逆に三日月は涙が止まっていた。女が拭ってくれたせいもあるが、自然と止まっていた。

返歌の意味はもうわかっている。わかっているから、もう余計なことは言うまい。あとはもう、彼女が望むことを言ってやらなくては。
力任せに抱きしめていた腕を少し緩めて、もう一度、しっかりと背中に腕を回してやる。



「どうか、長くここにいてくれ。俺はお前の役に立とう」



健やかでいてくれ。もう病にはかかって欲しくない。
笑っていてくれ。俺に最初に教えてくれたように。
悲しいときは俺を呼んでくれ。泣くのなら俺の傍で。
嬉しいときは俺にも教えてくれ。分かち合いたいからな。

俺はお前が愛おしい。
だから俺と共にいてくれ。その命尽きるまでずっと。
だが次はどうか、俺に斬れとは言わないでくれ。今の俺にはあまりにも酷だ。



背中を撫でながらゆっくりと言葉を紡いだ。女の腕が動いて三日月の背に回される。女は何も言わなかったが、静かに涙を耐える音がした。



*****



三日月の紡ぐ言葉はどうしてこうも心動かされるのだろう。
三日月の背中に腕を回し、私は静かに泣いている。



「とても長く、かかってしまいました…こうして、お会いするまで…っ」



本当に、とても長くかかってしまった。
どうしても、私には選択肢が一つしかなかったのだ。こうして、かつての記憶も全てを持って再び世に生まれるには。
命尽きた人は全てをリセットされ再び世に生まれる。かつての記憶も絆も全てをゼロにしてしまえば、次の命の始まりまで時間はそうかからない。しかし私のようにリセットを拒む者は、氷のような水の中で千年を待たなければいけなかった。



とても冷たい場所にいた。

冷えた金属のような、氷のような、水のような。
そこを流されるような、そうではないような、そこに揺蕩っているような。

苦しかった。寒かった。寂しかった。悲しかった。
だけども印がついたから、仕方がなかった。
嫌だったのだ。拒んだのだ。どうして手放さなくてはならない。
忘れたくなかった。三日月宗近という、愛おしい男のことを。

つらかった。暗かった。冷たかった。恐ろしかった。
あれはどのくらい、この時までどのくらい。あの場所に、あの場所で。
長い。永い。ながい。

とても冷たい場所にいた。



「この印が付いた者は、膨大な時間がかかるのです…」



私は三日月を見上げ、自身の頬にできる小さなえくぼを指さした。三日月は少し首をかしげる。この説明は、またあとだ。

かつての記憶を持っていたかった。そうでなければいけない。もちろん、審神者としてここに至るまでの人生にも誇りを持っているけれど…私は、あの時の私としても三日月に会いたかったのだ。
でももう、どれだけ時間がかかったのかなんてことはどうでもいい。私はこれから先の人生、審神者としてこの本丸で過ごす。私が審神者でいる限り、私の命が尽きぬ限り、私はここにいられる。三日月とまたいられる。

私は三日月に会いたかったのだ。伝えたかったのだ。
これほどに誰かを求めて、傍にいて欲しいと思う。この感情を伝えたかったのだ。かつては伝えずに終わってしまった。



『筑波嶺の 峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる』



いつかの、あの時の和歌にお返しをしなくてはと思っていた。ようやく叶った。今にして思えば、あの時初めて出会って和歌をくれたあなたは、私に恋をしていたのですね。今のあなたも、そうなのですね。



「今の時代に顕現してからは、俺も新しい言葉を覚えたぞ」
「そうですか、どのような?」
「すきんしっぷに、ちゅーんなっぷ。他にもいろいろだ」
「それはそれは。とても馴染んでいますね」
「ああ。以前お前といた頃には知らなかった言葉もな」



ゆるりと心地よい空気を出す三日月に笑ってしまう。

少しだけ体を離して三日月の頬を両手で包む。三日月は私を抱きしめたままでいてくれる。お互いの額を軽くぶつけると心が温かい。どことなくくすぐったい気持ちになる。今もかつても。



「愛しているという言葉は、お前は教えてくれなかったな」
「今は知っているから、それではいけませんか?」
「…そうだな。それでいい」



今はもう、お互いに言える。互いの気持ちをわかっている。三日月も私も言える。愛していると。
嬉しくてまた少し涙が流れてしまったけれど、三日月も同じなのか、目が合ってお互いに笑った。とてもとても、幸せな気持ちだ。嬉しくて仕方がない。
ようやく会えた。お待たせしてしまいましたね。



みかづき、三日月。三日月宗近。
私はあなたを愛しています。



(――何度も恋しく思ってようやく逢えたその時くらい、愛おしむ言葉をかけてください。この恋が長く続くようにとお思いならば)





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