夜の本丸はとても静かだ。時折宴を開くから、その時は遅くまでとても賑やかであるけれど。
布団を敷いて、明かりを消せばもう寝るだけというところだが私はまだ寝ようとは思わなかった。服も寝間着に着替えてはいない。眠る気がないのかと言われてしまえば確かにそうなのだろう。だけども、起きていなくては。

正座をして静かに部屋の真ん中にいたが、ふと、明かりをつけていなくともよいのではないかと思えた。今日は非常にいい月夜なのは部屋に来るまでの廊下を歩く中でわかっていた。
試しに明かりを消してみるが、月明かりが直接部屋に当たる形になり充分に部屋は明るかった。これでいいか。再び布団の隣に正座をすれば、静かな夜がまた始まる。目を閉じて、自分の呼吸する音だけを聞く。



小さな音がした。
普通なら気づかない音だったかもしれないが、今の静かな廊下と妙に集中した私の耳にはよく響いた。
閉じていた目を開ける。徐々に近づいてくるその音は足音だ。少しずつこちらへ来る。やがて耳を澄まさずとも音が耳に届くほどになった。同時に、月に照らされる障子に影が映る。その影の形だけで、誰が来たのかというのはわかる。いや、そもそも影でなくともこうしてここに来る人のことはわかっている。



「主よ、……起きているか?」



映された影は穏やかな声を発する。その声は本当に心地のいい。



「はい。起きていますよ」



明かりが消えていたから、すでに私が眠ったのかと思ったのかもしれない。だけども私は起きていた。待っていた。
私の返事に、影が安心したように息を吐いたのがわかった。そのまま廊下に丁寧に正座をする。



「本日も、出陣お疲れ様でした」
「じじいとはいえ、お前の力を無駄にしてはいけないからな。今日は、如何様だった?」
「はい、こちらも変わりなく」
「そうか。何よりだ」



障子を開けぬまま、互いの顔も見えない状態で会話は続く。
それが私たちのするべきことだからだ。私というより、主に三日月の考えで。夜に三日月が私の部屋を訪れこうして会話をするのは、今日で三日だ。だけども障子を隔てて会話をするだけで、顔は直接合わせていない。
それ以前には、手紙のやりとりがあった。同じ建物内にいて、普通に会うことも会話もするのにだ。何度か手紙のやりとりをした後、こうして夜に三日月が部屋を訪ねてくるようになった。
どうしてこのようなことをするのか最初は疑問だった。それは、私が2200年代に生まれた現代人だからであろうというのはすぐにわかった。だけども同時に、三日月にはそうしたい理由があるのだというのも理解した。私たちにはこれが合っているのだ。

――私と三日月が、かつて生きていた時代に沿った疎通の仕方だと。
手紙のやりとりから始まり、やがて夜に男が女を訪ねる。それを三日続ける。
遥か昔の頃の話だ。現代と比べれば文化もモラルもすべてが異なっている。だが私も三日月も当時のそれを知っている。だから敢えてこれをするのだ。
この古風なやりとりを楽しんでいる自分らも確かにいるから。



「明日は休みとなっているが、どう過ごすのか決まっているのか?」
「いえ、それはまだ。ひとまず、晴れたらお洗濯でもしましょうか」
「たまの休みも家事に勤しむか。お前は一等働き者だなぁ」
「良ければ三日月も手伝っていただけますか?」
「あいわかった。どのみち、お前の頼みは断れないからな」
「それは……、私が審神者だからですか?」



尋ねてみれば、障子の向こうで三日月が背を伸ばしたのがわかった。しかしながらすぐに向こうの気配は柔らかいものに変わる。



「まさか。お前がお前であって、他でもないお前の頼みだからだ」



そう言われて、無意識に入っていた肩の力抜ける気がした。
私が私だから。審神者ではなく、主としてではなく、私を私として見てくれる。それがとても嬉しかった。もちろん今までもそれは充分に感じていたけれど、改めて三日月がそう思ってくれていることが嬉しい。



「そうですか。心より嬉しく思います」
「お前が喜んでくれるか、なにより幸福だな」



三日月の声には穏やかな嬉しさが滲んでいる。それをまた私も嬉しく思うのは単純すぎるだろうか。
さぁ、ところで……。



「あの、みかづき、」
「娘よ」



私の言葉を遮るように、三日月が口を開いた。私を「主」と呼ばなかった。



「今日で、俺がこうしてここに来るのは、三日目だな」
「……はい、そうですね」



少しだけ静寂が訪れた。
何と言えばいいのか。いや、きっと私からは何も言ってはいけないのだ。女は男の言葉を待つもの。そんな、かつての古めかしい感覚が蘇ってきてしまう。現代ではジェンダーとして取り上げられそうな勢いだ。

影が静かに立ち上がった。一瞬だけ躊躇いが見られたが、障子にかかった手が引かれ、ゆっくりと私たちを隔てていた物理的な壁はなくなる。
下げていた視界には上質な着物が映りこむ。目線を上げる。月を背にした三日月宗近がそこにいた。
――月の下に佇む彼の、なんと美しいことか。
廊下から部屋に足を踏み入れ、そっと障子を閉めた三日月は、私の前に跪くようにしゃがみ込む。



「……いやはや、今までで一番長い三日間だった」
「こうして通ってもらえるとは、思いもしませんでした」
「お前がいてくれるなら、俺は百でも千でも通うつもりだぞ」
「三日で長いと感じるというのにですか?」
「ふむ、それなら残りも通い通して見せよう。侮ってくれるなよ?」
「冗談です。それほどの覚悟でいてくれるのは嬉しいですが、そんなに待たされてはきっと私は耐えられません」
「あっはっは、それもそうか」



どうかもう、待たせないでください。待つのはもうこりごりです。今まで、私はどれだけ待ったことか。

三日月は少し悲しそうに微笑んだ。こちらに伸びてきた手は、労わるように私の頬に触れる。



「そうだな。三日も待たせて、すまなかった」
「……いえ、この三日間はとても楽しみでしたよ?」



しばらく続いた手紙のやりとりも、夜に行うこの会話も。
とても甘酸っぱくて、素敵な気分だった。これほど素敵な恋があるだろうかと思うほどに。
言ってみれば、私たちはもうすでにお互いの気持ちは知っていた。だけども敢えてこんな遠回りをした。かつてはできなかった恋の形を当時の形式で行うことで、長すぎた今までの空白を埋めたかったのかもしれない。自分たちは確かに通じていると思うために必要な儀式とも言えただろう。

もう待つのはこりごりだが、少し言い方を変えたい。
きっと来ると約束してくれるのならば、私はいつまでも待っていよう。ああでも、



「できれば、千年を超えてほしくはないですね」



三日月は何度か瞬きをしたが、すぐにいつものような笑みを浮かべる。



「もう、待たなくていいぞ」
「はい」



笑い返せば、三日月は私の前に完全に膝をつき、私の腕を引いた。温かい体温にようやく触れることができた。待ち望んでいた。
もう、とうに互いの気持ちなどわかっていたというのに。だけどもようやく、こうして正式に三日月に触れることが叶う。ああ、やっとやっと。
その背中に腕を回す。



「……明日は休みだが、お前は早く起きるのか?」



背中を撫でながらの三日月の声に、私は腕に力を込める。少しだけ体を離すと、三日月の手が頬に触れた。その手に自分のを重ねて見上げると、青の中に浮かぶ三日月模様が見える。
先ほどは、普通に洗濯でもしようかなどと言ったけれど。



「お休みですから、明日は、寝坊してもいいかもしれないですね」



目が合った状態でお互いに笑う。なんだかとてもくすぐったい。



「そうか、では……そうするか」



目を閉じると三日月模様は見えなくなったが、同時に唇に温かいものがそっと触れた。小さな温度が離れて目を開けると、額がぶつかった。



「愛しているぞ、娘よ」



この日を、この瞬間を待っていた。笑みを浮かべて発せられる声は、どこまでも私にかつてを思い出させる。かつての私は今の私、今の私はかつての私。だけどもどれだけ時が過ぎようとも変わらない感情はある。



「私もです。心から」
「……ん」



三日月は嬉しそうに眉を下げた。
再び触れあう唇はとても温かくて優しい感触だった。だからもっと、ずっとこうしていたいと思える。だけど少し不思議だった。私は今日、初めて三日月と唇を合わせたというのにその感覚はなぜか懐かしいような気さえした。

三日月に体を預けるようにもたれながら、眠ろうと思ったわけではないが二人で布団の上に横になった。それでもお互いを放そうとはしないのだけど。



「夜は長いな」
「そうですね、眠ってしまえば短いものですが」
「今夜はきっと長い。……どれ、一つ話をしようか」
「昔話ですか?私はそこまで子供じゃありませんよ」
「あっはっは。子供のところに通うほど、俺は節操なしではないぞ」



冷えないようにと思ったのか、三日月は掛け布団を引っ張り私の体にかけた。
互いに寝間着ではないから、着物がしわになるなと思ったが今はもう気にしないことにした。



「それで、話とはどのような?」
「ああ、聞いてくれるか」



不意に三日月の手が私の手に触れた。自然と指が交互にゆるく絡まる。
三日月の声も、月明かりに照らされる表情も、とても幸せそう見えたのは私が彼にそのようなフィルターをかけているせいだろうか。いや、きっとそうではなく。



「俺が初めて愛おしいと思った、一人の女の話だ」



そう言って三日月は小さく笑った。

きっと気のせいではない。
事実、三日月はきっと幸せなのだろうと。そして、三日月と出会う星の下に再び生を受けた私も、とても幸せなのだと思った。





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