今日は珍しいことが起こった。
夜に御手杵が部屋にやってくるのはよくあることなので驚きはしない。だがそのあとの御手杵はどこか変だった。いつもならそのまま二人して布団へ向かうはずなのだが、御手杵はいつものように私の手を引くことはなかった。
これにはちょっと、戸惑いを隠せなかった。もしかしたら、私の仕事がまだ少し残っていたから終わるまで待つつもりなのだろうかと思い、残りを手早く終わらせた。でも、仕事は終わったと告げても御手杵は何もしてこない。



「御手杵…?」



私が用意した座布団に座り、俯き気味に御手杵は静かにしている。
どこか体調がすぐれないのだろうか。一応、怪我であれ病気であれ手入れという名の治療で治すことは可能だ。
もう一度声をかけると、御手杵は顔を上げた。手首を掴まれたと思うとそのまま私の体は御手杵のほうへ倒れる。ああ、いつものが始まるかと思ったのだけど、倒れこんだ私の体をぎゅうっと抱きしめるだけで御手杵はそれ以上何もしてこない。
胡坐をかいたところに私を乗せ、肩を抱えるようにして私を抱きしめる。



「あの、御手杵?」
「ん?」
「どうかしたの?」
「どうもしないけどさ」



御手杵の表情を見ることはできない。見えない。



「その…、しないの?」
「したいのか?」
「え…、や…。私は、どっちでも、いいけど…」



まさかの質問で返されて、返答に詰まってしまった。
私が体を許すのは、それが御手杵に必要だからだ。霊力を彼に与えるために。そうでなければ、性欲が強いわけでもない私はそういった男女の行為を特別求めてはいない。だから御手杵がしないというのであればそれにあやかってしないだけの話だ。だけども、そうなるとこの状況にますます戸惑ってしまう。ただ抱きしめられ、御手杵から伝わるぬくい温度に身を任せながら何度も嗅いだことのある、御手杵のだとわかる匂いの中で呼吸する。

相変わらず御手杵の顔は見えない。すると御手杵の手が少し動く。動き始めたことに無意識にちょっと身構えたが、御手杵の手は私の頭や背中をゆるく行き来するだけでそれ以上のことはない。子供をあやすような手つきに首をかしげたい気持ちになりながらも、その感覚にいつもと違う心地よさを覚え、なんだか眠くなりつつあった。

今日の御手杵はなんだかおかしい。どうしたのだろう。
いつものように体を重ねることもなく、ただ私を抱きしめているだけとは。
ああでも、別にこれはこれでいいのかもしれない。
御手杵にとっては私に触れていれば霊力供給が果たされる。今日は、体を重ねるほどの大きな中和が必要なかったのかもしれない。こうしている間にも霊力供給はちゃんとなされているのだろう。私には、霊力が減っていくとかなんだか疲れるとかそういった感覚は何もないが、御手杵には霊力が自分の体に流れ込む感覚があるはずだ。

決してお互いに、お互いを嫌悪しているわけではない。だけども御手杵が夜に私の所へやってくるのは、理由が一つしかないからわかりやすい。それ以外に、わざわざここへ来る理由が彼にはない。
御手杵が私に触れる理由は、それとわかっているからいっそすがすがしいのに。それなのに…、今日の随分と優しい手の動きは、胸が苦しくなるからやめてほしいと思った。



「主」
「うん?」



私の背中を撫でていた手が止まり、返事をするとようやく御手杵の顔が見えた。
表情は日中見るような穏やかな表情で、その表情を夜に見るのは初めてで少し心臓が音を立てた。よかった。霊力供給がなされたから、もう神気の乱れも落ち着いたのかもしれない。

背中に当てられていた手が首のほうへ移動する。軽く顎を上げられたと思ったら、そのまま御手杵の顔が近づいた。
驚いたが、それは今日の雰囲気からはキスを、ましてやそれ以上のことを御手杵がする気がないとわかっていたし、それに伴ってキスもしないと思っていたから。だから少し驚いたのであって「御手杵とキスをする」ということ自体には、もうすでに驚きもためらいもない。
柔らかく触れた御手杵の唇は少しだけかさついている。ゆっくり角度の変わるそれに、私は慣れたように口を開いて入り込んでくる舌を受け入れる。きっと霊力が足りなかったのだろう。それなら満足するまでもらってくれればいい。

ゆっくり唇が離れて、御手杵と目があう。



「主、あのさ」
「うん。なに?」
「なんか、あるか?」
「え?」



御手杵の質問には、質問というよりただの疑問形で返すしかない。なんかあるか、って何をだろう。



「今ので、さ」
「今の…?」



今のキスでということだろうか。何を言っているんだろう。
今のキスはキスでしかなくて、それでいて霊力供給のためのものだった。いわばキスという行為ではなく、キスという手段でしかない。

そんなことはお互いにもうわかっているはずなのに、どうしてそんな顔をしているの。どうして少し不満げなの。どうして少し悲しそうなの。
私がくるくると考えている間に、御手杵は眉を下げて困ったように笑った。私の額を自身の肩に押しあてたと思うと、ぽんぽんと頭を撫でられる。



「うん、悪い。俺が間違ったんだ。なんでもない」
「…なにか間違ったの?」
「ああ。訊き方を間違った。変なこと訊いてごめんな」



よくわからない。御手杵はなにを間違ったんだろう。
考えているはずなのに、程よい心地よさのせいか徐々に瞼が重くなってきてしまう。今日は意外にも、御手杵と体を重ねることはなかったから余計に気が抜けたというのもあるかもしれない。



「眠いか?」
「うーん…」
「いいぜ、寝ても。…寝たらちゃんと布団に入れとくからさ、もう少しこのままでいいか?」
「ん?うん…、いいよ」
「わかった」



今日の御手杵は随分優しい。態度も声も手もすべて。いつもが優しくないというわけでは決してないけれど、今日はどうしたんだろうか。

どうせなら、いつものように、ただただ霊力供給という名のまぐわいをするほうがよかったのに。
眠たいはずの私の頭は片隅で、そんなことを悩みとして起動させようとしていた。いや、常々思っていたことではあったのだけど。

御手杵が私の所へ来るのは神気の乱れを治すため。
私と御手杵が体を重ねるのは、彼に霊力を与えるため。
私と御手杵がキスをするのも、同じ理由。
抱きしめられることも、手を握ることも。一晩中体を重ね続けることがあろうとも。
全てすべてが、一つの理由なのだ。

目を閉じて、眠りの淵に立っている私の手が持ち上げられた。重たい瞼を少し開くと、持ち上げられた私の手は御手杵の顔へと引き寄せられる。
薬指が御手杵の唇に触れた。
突然のことに驚くが、再び瞼が落ちていく。もうだめだ。眠い。考えるのはやめよう。考えてもきっと無意味だ。

私と御手杵がする行為に感情は必要なくて、むしろ入れてはいけないような気がしていて。
どれだけ唇に、体に触れようとも私たちが行うそれらには、通常では前提として存在する愛とか恋とかのきらきらした感情はないのだ。
いつからかそんな事実を悲しく思い始めていた私は、きっと馬鹿で愚かなのだろう。だからこそこれ以上なくはっきりと割り切っていたかったのに。今日の御手杵が、御手杵のキスがいつもと違うような気がしてしまったから余計に参っている。

御手杵、お願いだから。
愚かしい私の感情を、どうして、全部全部突き放してくれないの。



(薬指にくちづけを)




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