―――光忠

―――ねぇ、光忠

―――光忠、聞いて



そうやって自分に声をかけてくる主人のことは、好意的に思っていた。

燭台切がこの本丸に来るよりも前に、初期刀や短刀たちをはじめとして主人を助けている者たちはたくさんいた。主人は皆を平等に大切に思っていた。それは刀剣たちも同じだった。
燭台切は本丸で初めての太刀だったが、最初は迷惑をかけてばかりだった。
練度の低さは仕方ないが敵を討ち漏らすし、よく刀装を壊したし、軽傷とはいえ傷を負えば治療には非常に時間がかかる。
そんな自分を格好悪いと、情けなく思ったことは一度や二度ではない。だが主人は気にした風もなく、ありがとうといつもこちらに礼を言った。

元は刀だ。戦いに出してもらえることは誇りであり、怪我を負ったとしても必然であり、最終的に折れることになろうとそれは刀の倣いだ。
なぜ礼を言うのか不思議に思った。

―――頑張ってる者を労うのも感謝するのも、おかしいことじゃないでしょ?

なるほど、彼女は優しい人だ。そこで人の温かさを知った。
その後しばらくしてから、刀の身では決して経験し得ることのなかった、恋を知った。



主人を中心とした本丸において、彼女の中で特別な位置づけを獲得するのは容易ではなかったが、主人は燭台切を受け入れてくれた。

「君が好きだ」と。震える手と声でそう告げた。
初めて知った感情に、余裕なんてものは一切なかった。伊達男の名が泣く。人の体を得てから、記録に残りそうなほどあの時の自分は格好悪かったと燭台切は嘆く。



「あのときかぁ。気にしなくていいのに」
「…君の優しさが、今の僕には痛いよ」



出陣や遠征結果の報告書を書きながら、そのときのことを思い出す主人はころころ笑った。



「光忠が格好悪かったかどうかは、この際関係ないよ。私は死ぬほど嬉しかったんだから、それでいいじゃない」



審神者になったら、恋愛事なんて無縁になると思ってたんだから。
かたかたと、主人がパソコンのキーを叩く音が響く。



「それはまた、どうしてだい?」
「現世からは離れることになるし、男の審神者とは演練とか会議くらいでしか会わないし、話す機会も少ないから」
「そうだけど、刀剣男士の誰かとそうなるってことは考えなかった?」
「みんながあまりにも美男子過ぎて無理。容姿も中身も神格も、私じゃ釣り合わないって思った」



だからせめて主人としては好きになってもらえるように頑張ろうとしたと、主人は言う。

それは少し納得がいかないなと思った。



「釣り合わないなんて言わないで欲しいな」



主人に近づき、そっと手首を掴んで作業を中断させる。



「光忠…?」
「僕は君だから好きになったんだよ」



人の体を与えられてから、燭台切が知った女性というのは数えるほどしかいない。そんな中で身近にいる存在であった主人に好意を向けるのは当然だと、そう言う者がいるかもしれない。
しかし燭台切にとって、他の女が主人でもこうなったかと訊かれれば答えは否である。

好きになったとしても、この人でなければこんなに愛しいとは思わなかった。
この人でなければ、好きにならなかった。この人でなければ、だめだった。
膝立ちの燭台切を見上げる主人の顔が、じんわりと赤くなった。



「ごめん…」
「いいよ。僕が君のこと好きだってわかっていてくれれば」
「…わかってるつもりだったけど、全部をわかってなかったみたい」
「そうだろうね」



燭台切が胡坐をかいて座ると、向き合った主人の顔が急に近づく。珍しく主人から口づけしてくれるのかと思ったが、予想は外れる。

こつんと、額がくっついた。



「太刀刀剣、燭台切光忠―――」



不意に真剣みを帯びた声に、部屋の空気が変わった。電流でも走ったかのように、何か圧倒されるものが燭台切の背中に走る。



「私があなたの気持ちに全身全霊で応えるには、足りないものがあります」



霊力が働いているわけでもないのに、燭台切は何も言うことができないでいた。
間近に見える主人の目がゆっくりと閉じられる。



「私は…、あなたに名を言うことが叶いません」



それは政府からの命令だった。

呼び名に神と付いてはいるが、付喪神はいわば妖や精霊に近いもの。人々が祈りを捧げ崇め称えるような神とは少々違う。
だが刀として使役するとはいえ、刀剣男士という霊的なものと接触するのに用心と線引きは必要だ。だから、人間を形成する要素を大きく占めている名前は教えるなと、政府から審神者へ命じられている。

本丸にいる誰も、主人の名前を知らない。
事情はわかっていたし、名前を知ったとしてそれにより主人を縛ることができるのかと言われても、それは燭台切自身もわからなかった。

刀に宿る意思でしかなかったところに、主人に人の体を与えられ、そこで初めて付喪神として自分は生まれた。それに伴う人格を持って自らの意志で動き、人と同じように動けること以外に、何か特別な力があるのかなどは知らなかった。



「名を教えずしては、あなたの気持ちに心底応えたことになりません。…今は言えません。ですがいつか必ず教えると、ここで誓います」



主人の手が、燭台切の胸の真ん中へと添えられた。



「願わくは、私の誓いを受け入れてください、燭台切光忠」



これは儀式だと、反射的に思った。
霊力も何もない。祓い清めるようなこともしていない。しかしながら自分たちにとって大きな境界。彼女が誓うにあたり、口先だけの約束ではないのだと、それを証明するために行っているのだ。

胸に当てられた主人の手に自分のを重ねた。
願わくはなどとわざわざ願わなくても、答えは既に決まっている。



「長船派の祖、光忠が一振。燭台切光忠から汝へ。その誓い、たしかに」



自分が言うのはこれだけでいい。
閉じられていた主人の目が開く。小さくも大きな意味を持った儀式は終わりだ。主人自ら、いつか必ず教えると言ってくれた。誓いすら立ててくれた。これで不満など抱こうはずもない。

開いた目が、安心したように細められる。



「ありがとう、光忠」
「いいや、こちらこそ」



胸に当てられていた手を握り、そのままどちらからともなく口づけた。

いつか主人の名前が知れるのはもちろん嬉しい。
それ以上に、自分にだけそれを誓ってくれたことが、燭台切にはなにより嬉しかった。



(待っているよ。君が教えてくれるときを)




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