体が痛かった。体が熱かった。 呼びかける声に目を開くと、そこには光忠がいて、ああ、遠征から帰って、ここに来てくれたのかと切れ切れながら思った。なんとか光忠の名前を呼ぶも、痛くて苦しくて声を出すことがとてもつらい。 でも言っておかなくてはならないことがある。 本当は、こんな形で言うのなんて嫌だけれど。 血が止まらないから。もう時間がないから、今言わなくちゃ。いつかの日の誓いを果たさなくちゃ。 必死に口を開いた。 「しょ、くだい、き…みつ、ただ…、……−」 ―――しょくだいきりみつただ。 目を開けて見上げる先に光忠がいることを認識した。ぼんやりと口を開き、無意識に声を発して、気づいた。 …しょくだいきり?私は何を言っている? 光忠の名字は“長船”だ。しょくだいきりなんていう単語、私はどこからひねり出したのだろう。 視界にいるのは光忠のはずだが、何かが違った。 黒いスーツを着ている。いつの間に着替えたんだろう。右肩には何やら防具のような物も付いている。 …あれ?彼の目は、金色だっただろうか。右目に眼帯などしていただろうか。 「…み、ただ…」 名前を呼んでみると、光忠の姿がゆらゆらと揺れる。 一度目を閉じて開けてみれば、そこにはたしかに光忠がいた。スーツ姿でなければ眼帯もしていないし、目も金色ではない。私がよく知っている光忠の姿だ。私が眠りに落ちる前に見た、そのままの。さっきのは、気のせい、か。 ああ、そうだ。私は寝ていたのだった。 視界の隅に映るテーブルには、ショコラテを飲んだマグカップが二つ置きっぱなしだ。 どうやら光忠が膝枕をしてくれていたようで、私はソファーの上で横になっていた。軽く目をこすり光忠を見上げて、驚いた。 光忠が、目に涙をためていた。 何も言わず私の手首を握る。まるで脈を確認するように。すると、目から静かに涙が流れた。伝った涙がぴとりと私の顔に落ちる。 「光忠…!?」 一気に覚醒した私は飛び起きた。どうしたの光忠、何かあったの。突然のことによくわからないまま光忠に向き合う。 光忠の頬に手を当てる。私はまた、無意識に口を開いていた。 「泣かないで…」 言った瞬間、光忠の表情が強張った。 手を掴まれて引っ張られたと思うと、背中と後頭部に手が回り強く抱きしめられた。 隙間などどこにも作らないというほどに。その力がわずかに痛いと感じるほどに。 「み、つただ…?」 「…っごめん、ちが…、ちがう…なんでも…っ」 なんでもない、と言いたいのだろうか。とてもそんな風には思えないのだけど、今の私には何をどうしたらいいのかわからない。どうして光忠は泣いているんだろう。 「あ、…じっ、きみ、が…大事なんだ…。ずっと、まえ、から…ずっと、ずっと…っ。君が…」 何かを説明しようとしているわけではないようだった。私の肩に顔を埋めた光忠は、感情のままに、うわ言のように言葉を紡いだ。 ずっと、前。いつのことを言っているのだろう。 出逢ってからこうした仲になるまでたしかに時間はかかっているけれど、ずっと前、と言う程ではない。疑問に思ったが、訊けなかった。 手を回して広い背中をゆっくりと撫でる。今の私にできることは、これくらいしかない。 さっき反射的に泣かないでと言ってしまったが、またそれを言おうとは思わなかった。涙を止めて欲しいということではない。泣きたいのなら受け止めてあげたい。でもどうしたって、好きな人が何か悲しい思いをしているのは自分も悲しい。 必死に私を抱きしめて嗚咽を漏らす光忠が、悲しくて切なくて、痛々しくて。 しばらくそうしていたけれど、腕の力が緩み光忠が顔を上げた。 「…ごめん。…っ、格好、悪いね」 「…ううん、全然」 テーブルからティッシュを取り、赤くなってしまった光忠の目元に当てる。 腕は緩んだけど光忠は私を離そうとはしない。されるがままに涙を拭かれるのは、たぶん甘えているのだと思う。 鼻もかむ?と尋ねると、さすがにそれは格好悪過ぎるからと苦笑された。 「泣いて疲れたでしょ、何か飲みもの持ってこようか?」 「いや、今はいいよ。ここにいて」 回されたままだった腕の力が少し強くなった。すぐそこのキッチンへ行くだけなのに、まるで私が遠くに行ってしまうと言わんばかりだ。 項垂れるように、光忠が私の肩に額を当てた。首筋に、少し癖のある髪が当たってくすぐったい。 「…ねぇ、」 「うん、なに?」 「君は、覚えてる?」 「何を?」 質問には主語がないから、私も質問で返すしかなかった。少し黙った光忠は、静かに答えた。 「…ずっと、前のこと」 言われてもわからなかった。光忠の言う“前のこと”は、いつを差しているのかわからない。 「光忠と会ってからの?」 「ちょっと違うかな」 「物心ついてからここに至るまでのことだったら、全部事細かにじゃなければとりあえず覚えてるけど…」 「…そう」 見当違いな答えをしてしまったのだろうか。 「ごめん…」 「謝らないで。君は何も悪くないんだ」 もうこの質問と会話は終わりらしく、光忠はそれ以上何かを言おうとはしない。私も追究しなかった。訊いても光忠は教えてくれなそうだった。気にしないで、何でもないんだ、とつらそうな笑みを浮かべる気がした。そんな表情はさせたくなかった。 光忠は私を大事だと言ってくれた。私だって同じだ。でも今現在、光忠が泣いて悲しんでいるのは、少なくとも私にも原因があるのだろう。 「…光忠」 「うん?」 光忠が顔を上げる。肩に手を置いて、キスをした。 普段私からすることは少ないけれど、今はそんなことどうでもいい。離れると、驚いたように光忠は目を瞬いた。彼の黒髪に手を差し入れて、そのまま梳くように撫でる。 光忠、聞いて。 「私、ここにいるよ」 光忠の言うずっと前も、どうして彼が泣いたのかも結局わからない、わかってあげられない。彼にとって大事なことなのだろう。同時にきっと、何か悲しいことも含んでいる。そんなことは忘れてしまえとは言わない。 でも、あなたが大事だと言ってくれた私は、ここにいる。 私という人間は、今ここで生きている。 それだけは確かだった。 「…そうだね。僕も、ここにいる」 「うん」 「君がいる」 「うん、いるよ」 光忠の目がまた少し潤んだけど、涙は流れずくしゃりと笑う。 改めて光忠が私を抱きしめた。先程のように力任せなものではなく、大事だと慈しむように、好きだと愛おしむように。温かくて心地いい。 そっと、片手を光忠の胸の真ん中に添える。彼はそれに少し震えた。胸に添えた手が握られると、光忠の顔が近づいて自然と目を閉じる。 「…#刀剣#」 触れた唇が離れると名前を呼ばれた。呼ばれたのは初めてではない。今まで何度も呼ばれている。でも、こうして光忠に呼ばれることをずっと待っていたような。 私を呼ぶその響きがあまりにも優しくて、どうしようもなく愛おしい。 「好きだよ。君が好きだ」 「私も好き。本当に好き」 もう本当に。好き。大好きよ光忠。ずっと、ずっと前からこの人が大好きだ。 ―――ずっと前から…? 小さな疑問が頭をかすめたけど、こつりと額がぶつかったことで意識がそちらに向いた。 また名前を呼ばれる。つい、笑みがこぼれた。呼ばれたのは私。光忠は呼んだだけ。それだけなのに光忠はこれ以上なく幸せそうに笑うから、同じように笑った。 光忠がいて、お互いに笑い合えることが何よりとても嬉しかった。 |