電車内でスマホを落としたことに気付かず、それを拾ってくれた人。追いかけてきてくれた人。去り行く自分を捕まえてくれた人。 「今日はありがとう」 「ううん、こちらこそ。いつも送ってもらっちゃって」 「僕がそうしたいから、気にしないで」 「ありがとう」 「じゃあ、おやすみ。…また今度」 「うん、おやすみなさい」 そう言って小さく手を振り、アパートの階段を上っていく彼女の後ろ姿を見送る。それを見届けてから、自分はようやく家路へと向かう。何度も繰り返してきた、いつものことだ。 落とし物を拾ってくれた。助かった。お礼をしたかった。でも明らかにそれとは違った理由を持って、彼女と知り合いになりたかった。 なんとかうまくいって連絡先を入手した。自然とやり取りをするようになって、約束を取り付けて仕事終わりに食事をするのは何度目になっただろう。 “君が好き” また今日も言えなかった。これももう何度目だ。 ***** 「おう長船、お疲れ」 「ああお帰り。今日のランチは何にしたの?」 「ナポリタンだ。おしゃれだろ?」 「社食のだろう?」 「それを言うなって」 ランチに行っていた同僚数人が戻ってくる。もうすぐ昼休みが終わる。ペットボトルのミネラルウォーターを口に含んだ。 「なぁ、今日の夜さ、どっか飲みに行かないか?」 「あ…、ごめん、今日はちょっと」 「なんだ、先約か?」 「そうなるかもしれない」 「暫定かよ」 手に持っていたスマホが震えた。メールが返ってきた。先約になるかもしれないその相手の女性から。メールを開いて内容を読めば、自分が送った誘いへの了承だった。口元が緩む。 「ごめん、先約が確定したよ」 「マジかよ。友達か?」 「あー…まぁ、そんなところかな」 「お?好奇心煽ってくるな長船。なんだ?女か?彼女?」 「いや、違うよ」 「なぁんだよつまんねぇ。お前モテるのに今彼女いないもんな。最後に彼女いたの学生のとき、とか前言ってたろ」 「まぁ…ね。全然続かなかったけど」 「モテるくせに彼女作らないとかほんと滅びろ!世の平凡男子に謝れ!」 「ひどい言われようだな…」 同僚に苦笑しつつ、スマホをタップした。 彼女、ではない。恋人ではない。でも仲はいいと思う。少なくとも嫌われてはいないと思う。 上手くやってきたつもりだ。これ以上ないくらい慎重になって連絡をして、話をして。 二人だけの逢瀬に応じてくれているということは、可能性はあると見ていいのだろうか。 会話はいつも絶えないのはいいことだ。だがそれが仇になっていることも事実。お互いに話題が豊富だから、肝心なことはいつも言えない。 そう思いつつもそれはただの逃げだと、薄々気づいていた。 言えないのは怖いからで、自分が臆病だからで。 これを失敗すれば、もう二度と彼女の傍にいられないと思うと、怖くて仕方がなくて。 引き延ばし続けて、彼女と知り合ってから二つほど季節が過ぎた。それでも冷めるどころか気持ちは加速し続けた。 だって、やっと会えた。他の女性ではやはり満たされなくて、恋人がいたことは一度しかない。でもその人を好きになれなかった。他の誰かではだめだった。彼女しか愛せないと思った。 “今から会えないかな” なんて、ふとした真夜中にそんなメールを作成したこともある。結局送信できず、文章を消してベッドの上で天井を見上げることもしばしば。 ラブレターを渡す中学生か、僕は。今いくつだ。 単なる気の合う友人と思われている可能性も0ではない。それは絶対に嫌だ。それでも彼女の心情がわからない以上、今の自分はどうするべきか。 ああでも、やっぱり馬鹿にはできないなぁ。 二十代も半ばのいい年をしてこれだけ甘酸っぱい感情抱いてるなんて、中学生とそう変わらないか…。 そうして昼休みが終わりを告げた。 定時で会社を上がり、電車に乗りいつもの駅で降りる。改札を通り出口付近で場所をとった。あと少しで会える。そう思った矢先、ポケットに入れていたスマホが振動する。 “ごめんなさい、残業になっちゃった…。だから今日は、行けないと思う。…本当にごめん” 短いメール。その残業が恐らく不可抗力のものであるとは、すぐにわかった。 だが少しだけ不安があった。もし…もし、約束を断るための口実だったら。ちらりとそんな疑いが掠めた自分に呆れた。どこまで臆病だ。 “大丈夫。待ってるよ” “三十分過ぎても来なかったら、先に帰っていいからね” こちらを待たせておきたくないという彼女の気遣いであるらしいその猶予は、あっという間に過ぎた。駅に人は大量にやってくるが、その中に彼女は見つけられない。連絡も来ない。彼女は帰っていいと言っていたが、帰ろうとは思わなかった。 会いたいと思った。その頑張りを労ってあげたかった。 待っていないと。お疲れさまって、言ってあげないと。…今日、言わないと。 いつまでも臆病な自分に愛想が尽きて動けなくなる前に、彼女に愛想を尽かされて立ち上がれなくなる前に。パチン、と両手で頬を叩いた。 ―――僕も男だ。戦場に行くんだ。 かつてとは意味が異なるが、それぐらいの気兼ねだった。そのくらい大袈裟に奮い立たせる必要があった。 時計を見ることも忘れてずっとそこに立っていた。連絡がないか時々スマホを確認し、顔を上げて人込みの中から彼女を探すことを繰り返す。 どのくらい経ったのかなんて気にならなかった。一人でした決意にどうしようもなく緊張していて、待っている間にどれだけ大きな鼓動を刻んでいたか知れない。 そしてまたふと顔を上げて周囲を見回し、その中にようやく見つけた。 勝手に待っていたのだから気にする必要はないのに、申し訳なそうにする彼女は優しい人だ。 「光忠、馬鹿じゃないの…寒いのに」 「それに関しては否定のしようがないなぁ。…でも、君に会いたかったんだよ。お疲れさまって、言ってあげたかった」 彼女の頭に手を乗せると、彼女は少し戸惑ったような顔をしたがすぐに微笑んだ。待っててくれてありがとう、と。 そのまま駅を出て、目的の居酒屋へ向けて歩き出す。 さて、いつ言おうか。お酒を入れてから実行か?店に着く前に言うか? ぐだぐだと思考を巡らせていると、隣にいるはずの彼女が斜め後ろを歩いていることに気付いた。いつもより歩みが遅い。 彼女を待ってる間に決めただろう、と再び自分を奮い立たせた。 もう二度と引かないよ、僕は。潔く散ってしまえ。 格好悪かろうが、無様に敗北を知るのもそれはそれでいいだろう。 俯きがちの彼女の手を取った。驚いたように顔を上げる。 「…光忠、酔ってる?」 「まさか、素面だよ。嫌だったなら僕の自惚れだから、離すよ」 まずい。手が震える。顔も強張っているのが自分でわかる。 「…自惚れていいよ。その代わり、私も今、光忠のせいでだいぶ自惚れてるけど」 それを聞いて、少し呆気にとられた。だがまだだ、まだ、ちゃんと言っていないから。 「…君も自惚れていいよ。じゃないと僕、格好悪くて情けないことになるから」 「情けないことになんて、ならないよ。私がさせない」 手を握り返されて、一気に体温が上がった。 ぐっと唇を噛みしめて、思わず空いた手で顔を覆う。ショルダーバッグが肩からずり落ちてきたけど、気にしていられない。 ああ、これは。 「え、ちょ、光忠?」 「ごめん…。これ、喜んでいいかい?」 「…うん」 そう言われたことと、固めていた決意に後押しされた。 僕はもう迷うことはない。 “君が、好きです” 手を握ったまま、我ながらよく言えた台詞だった。 “私もです” そう言って笑ってる君を、今とても抱きしめたくなった。 ――― (Sheep〜Song of teenage love soldier〜/ポルノグラフィティ) フォロワーさんから教えていただいた曲で |