―――未来と過去、どちらか一つを見れるようにしてあげる。どっちがいい?



暗い奥底の意識の中で、そんなことを尋ねられたような気がした。
誰だかわからない声に、どこだかわからない場所で。でも彼の思考はゆるりと回転し、意味を理解し、選択をした。過去がいいと。
それはどうして、と問われた。強い人より優しい人になれるように、と答えた。

以前の自分は強さを持っていた。敵を倒すほどに力があった。でも失くしたものがあった。一番失くしたくないものを失くしてしまった。なによりも忌まわしい惨状を見た。そしてそれがあった後、自分の意識は眠りにつくことになった。

とても大切だった。手放したくなかった。できることならずっと腕に包んでいたかった。それほどに失くしたくないものを失くした記憶と、悲しみや絶望の感情を体験したまま、鉄の塊へと意識は沈んだのだと、ぼんやりそれまでのことを思い出した。



―――そんなに大事なものだったんだ?

ものじゃなくて、人だね。

―――大事な人?

そう。とても大事な人だった。

―――あなたは恋をしていたの?

…好きな人だとは、一言も言っていないよ?

―――隠さなくてもわかるよ。でも、それなら見るのは未来がいいんじゃない?



見透かされたのがなんだか気恥ずかしかったが、その問いには、首を横に振った。
またあの人と会いたい。未来を見て、それが叶うのか見るのもいいだろう。それも大事だ。でもおそらくは、自分はこれから未来に行くのだろう。なら過去を思い出せるほうがいい。

それまでの想い出が何だったかがわかるように。
自分が誰だったかがわかるように。
あの人がどんな人だったかを思い出せるように。
忘れたいようで、忘れたくなどなかった。
それに頷いた誰かの声は再び言う。



―――これからあなたは人になるわけだけど、一番大事な心臓は、両胸につけてあげるね。特別だよ。いいでしょう?



人の体は持ったことがある。
腕があって、脚があって、目も鼻も口もあって、見て聞いて喋ることができて。ただのもの言わぬ鉄の塊だったころとはまるで違う。自分で動ける意思があって、喜怒哀楽の感情もあって、恋や愛という難しい感情もあった。少し考えて、答えた。



嬉しいけど、僕には右の心臓はいらないかな。



一度人の体を持ったとき、心臓と呼べるものは左胸に一つだけだった。そのときの自分には、真の命と呼べる本体は別にあったわけだから、人の体が死んでもさほど大きな問題ではなかったのだろうけれど。
でも心臓は一つでよかった。人の体であったとき、あの人を抱きしめた。そのときに感じられた、重なる二つの鼓動を思い出した。左側と右側でたしかに鳴っていた互いの心臓の音。それはとても心地よくて。

もしこれから自分に大切な人ができたら、そのとき初めて、自分は生きているのだとわかるように。あの人に会えなかったら一人で生きて、そのまま死んでも仕方がないけれど、できるなら一人で生きていかないように。
だから心臓は一つでよかった。



―――あなたはなかなかおもしろいね。

そうかな。

―――不確定要素ばかりなのに、賭けが盛大すぎない?それで賭けに勝つつもりなの?



これから人になるのだと、先ほどこの声は言った。
自分は人としての人生を歩むことになる。かつてのようなかりそめの人間ではない。本体となる鉄の塊を持たず、いつかは尽きる寿命を持ち、特別な身体能力も持たない。あの人と同じように。

だが人として生まれ出たところで、世にはいったいどれだけの人がいるのだろう。自分がどこに、どのような人間として生まれるのかもわかったものじゃない。そもそもあの人が同じ世にいてくれるかさえも怪しいのだ。会いたいと願ったところで、それが叶うのはどれくらいの確率だろう。
自分が本当の人でなかったとはいえあの人と同じ世に、同じ空間に、同じ時間に生きていたかつては奇跡に近かったのだと思えた。たしかに盛大過ぎる賭けだ。



…勝つつもりなんかないさ。

―――え、そうなの?わりとどうでもいいと思ってるんだね。

まさか。そんなわけないよ。

―――…どういうこと?

勝つつもりはないよ。



言われた通り、不確定要素が多すぎる。可能性も低すぎる。
勝つつもりはない。だが、



負けるつもりがないだけだよ。



そう言ったら、声は黙った。感心したのか、呆れたのか、はたまた馬鹿にしているのかは定かではない。
少し流れた沈黙の後、再び声が聞こえる。



―――そういえば、最後にもう一つだけ『涙』もオプションでつけようか?

涙?

―――そう。なくても全然支障は無いけど、面倒だからってつけない人もいるよ。どうする?



面倒だから涙をつけない。その気持ちはなんとなくわかる気がした。悲しいと人は涙を流す。老若男女を問わない。
辛くて悲しくて、絶望に打ちひしがれて、赤い海の中であの人を抱きしめて声をあげて泣いたことを思い出す。こんなに大量の水が出るなんて、人の体は不思議だった。

涙は本当に面倒だ。一度流れると留まるところを知らなくて、いつまでも泣けると思えるのにいつかは止まってしまう。そしてまた思い出したように流れては止まることを繰り返す。
厄介なオプションをつけないというのはわかる。だが、断ろうとは思わなかった。



つけて欲しいな。

―――へぇ、珍しいね。つけない人も多いのに。

なにも、悲しいことばかりで泣くわけじゃないだろう?



たしかに悲しいときや辛いときに流れる涙ではあるが。
嬉しくても、感動しても、幸せでも涙は流れる。
オプションをつけなかったら、そのときにすらも涙は流れなくなってしまう。それは少し嫌だ。

もしあの人に会えたら、嬉しい。
もしまた知り合いになれたら、感動する。
もしまた一緒にいることができたら、幸せだ。

その人が大切だと、それがわかるように。そのときのために、そのときのためだけにつけておこうと思えた。珍しいと言いつつも、声はそれを了承してくれた。



―――さて、これで準備はおしまい。望み通り全てが叶えられているでしょう?



準備段階なら叶えられているかどうか自分はわからないのに、すでにそれが実行されているかのように声は言う。



―――だから、



なぜか少しだけ涙が流れて、頬を伝うような感覚があった。今の自分はただの意識のはずなのに、なぜそんな感覚があるのかはわからない。



―――だから、涙に暮れるその顔をちゃんと見せて。泣かないでほしいけれど、泣くのなら、それでも誇りを忘れないで。さぁ、誇らしげに見せて。



頬がふわりと包まれるような気がした。温かい手であるような気がした。
そして、ゆらりゆらりと意識が遠のいていく。準備が終わったからその先に進むことになるのだろうか。ならば、おそらくこの声ともお別れだ。



本当にありがとう。いろいろとお手数をかけたね。

―――いいえ、とんでもない。

最後に一つだけいいかな?

―――いいよ、なに?



一つだけ、最後に訊いておきたいことがあった。
意識が遠のきつつあったが、どうしても訊かずにはいられなかった。



君と、どこかで会ったことがあるかな?



まだ自分は生まれる前だというのに、どうしてそんなことを訊いたのか。自分にもよくわからない。
姿も見えない声だけのそれが、少し笑ったよう聞こえた。



―――どうだろうね?どっちだと思う。…光忠。



―――
(オーダーメイド/RADWIMPS)
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