プロローグ


 コンパーメント内には夢と希望に満ち溢れた少年少女の息遣いがあちらこちらで賑わいを見せていた。
 その中で一人、物憂い気な表情で身を潜めている少女がいる。名を鈴子という。黒い髪を肩まで伸ばして、色白の肌には桃色の朱が差している。深緑色のスカートを皺になるまで握りしめ、鈴子は漸く口を開いたが、思った以上に上擦った己の声に肩を落とした。そして同時に、涼しげな顔の少年が分厚い洋書から目線を外して鈴子を怪訝そうな表情で伺う。なに?と言っているのは聞き取れた。その後に続いた言葉は良く理解できなかったが、鈴子はたどたどしい英語で少年に名前を尋ねた。

「セオドール・ノット」

 第一関門突破、と鈴子は息を吐いた。鈴子にとっては、この目の前の少年に名前を尋ねるのも、清水の舞台から飛び降りんばかりの勇気が必要だった。鈴子はにへら、と慣れない作り笑いを少年に向けると、私はスズコです、とまたもや慣れない英語で自己紹介をした。ここまでできた。あとは練習した通り、相手の趣味と、好きな食べ物と、出身と、好きな科目と苦手な科目を聞く。留学経験のある兄から、スパルタ教育をここ1ヶ月受けたのだ。できる、できる、できる、と呪文のように心の中で呟いているうちに、少年はまたもや洋書に目線を落とした。
 
「あ…」

 鈴子のちっぽけな勇気はもう既に忘却の彼方へと消え失せてしまった。あとに残るのは、この席を選んでしまった後悔だけだった。やはり先のことを考えたら、先程の女の子のグループに混ぜてもらえば良かったと。しかしながら、もう出来上がっている女の子のグループの輪の中に入って声を出す勇気も持ち合わせていなかったのだが。しかも相手は海を越えた遠い国で生まれ育った人間。日本で生まれ日本で育った鈴子にとっては、外国人というものを生で見るのも初めてであった。
 正直おっかない。外国人はなんというか、彫りが深い分威圧的に感じてしまう。そして日本人特有の薄い顔立ちの己が外国人たちに混ざるというだけでも、なんとなく言いようのない劣等感を覚えてしまっていた。目の前の少年、セオドール・ノットも、例に漏れず外国人である。しかしながら、鈴子がこの席を選んだのには理由があった。
 この人、暗そうだ。失礼ながらそう感じてしまった根拠としては、ただ単純にセオドール・ノットが騒がしいところから離れ、孤独に読書をしていたからである。可哀想に、と鈴子の哀れみの気持ちも手伝って、こうしてセオドール・ノットの許可を得て斜め前の席に鎮座しているのだが。なんとなく、鈴子が自己紹介をしてから一ミリたりともこちらに興味を示さないセオドール・ノットを見て、いらぬ杞憂であったと鈴子はまた落ち込む。可哀想なのは自分だけである。

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Michele