
こどものくに
こどものくに
「寂しいとか男らしくねえなあ」
ぼやかずにはいられなかった。岸の視線の先では、純白の衣装を身にまとった男女が並び、照れくさそうにほほ笑んでいる。幸せを具象化したような光景だ。
すやちゃんとは、幼馴染だった。異性で、歳も家も近くて、よく遊んだ。いかにもベタな少女漫画のような関係だ。もしかしたら、幼稚園の頃に、結婚の約束でもしていたかもしれない。
岸はその設定的な道すじから逸れることなく、すやちゃんに惹かれた。けれど彼女は違って、いつの間にか素敵な恋人を作り、やいのやいのと愚痴を漏らしながらもたいそうやわらかな顔をして岸の心をえぐっていた。
あの日もそうだった。岸の中で、最も大切で、淡くて、辛くて、夢のような不確かな思い出。
午前9時30分。地元の駅前のカフェで定期的に開催される、すやちゃん曰く『報告会』で、彼女はいつものように恋人の愚痴を吐き出していた。今はアメリカにいるようで、底意地が悪く、前髪がやたらと短いところが気に食わないらしい。送られてきた写真に写る彼のファッションセンスがあまりにもひどくて、別れを考えたと言う。でもそれは、本気ではないだろう。だって、悲しくなるくらいに愛おしそうな目をしている。
すやちゃんは一通りマシンガントークを終えると、話し疲れたと岸に会話の主導権を明け渡した。岸は、最近告白した女に振られたことを話題に出した。なんで振られるかわからない、彼女がほしい、とぼやく。いつもの流れだ。用意された文言であることを、すやちゃんは知らないだろう。
「岸くんはいい人だし、顔も格好いいし、なにより優しいし、彼女できない方がおかしいんだって! もっと自信持って! 岸くんは魅力的な人だよ! 岸くんと付き合いたい人は世の中にたくさんいるって!」
「……じゃあ、すやちゃん、俺と付き合ってくれない?」
小さい身体をせわしなく動かしながら、岸のことを精一杯慰めにかかるすやちゃんに、思わず本音がこぼれた。冗談っぽい声色が出てたらよかったのに、彼女の表情を見るに、そうはいかなかったようだ。岸は誤魔化すように、ドリンクに差されたストローを口に含んだ。中身を啜る。炭酸の抜けたコークは、甘ったるいばかりで、余計に喉が渇く。
「……えっと」
やめてくれ。そんなに困った顔で、傷ついたみたいな目で、見ないでほしい。これほどまでにタイムリープを求めたのは初めてだ。岸はぎこちなく笑って、「ごめん」と言おうとした。その瞬間、テーブルに置かれていたすやちゃんのスマートフォンが震えた。気まずい空気の中、ヴー、ヴー、と鈍い音を立て続けている。
「電話、出なよ。……木ノ瀬さんでしょ」
岸勇太はタイムリープも何も使えないただの人間だが、彼女の恋人は、どうやらテレパシーが使えるようである。
すやちゃんの恋人である木ノ瀬梓の帰国が突然なのは、よく話に聞いていた。今回もその連絡だったようで、12時間後にはこの日本へ帰って来るらしい。常であれば、悪態をつきながらもうれしそうに岸に報告するすやちゃんだが、今日ばかりはそうもいかなかった。
彼女にとって、岸は、大切な幼馴染で、けれど男ではなかったのだ。お互いに平等だった。だから、自分が好かれているなんて微塵も思わなかったし、そのことでひどく岸を傷つけていたという事実が受け入れがたい。タイミングが良いのか悪いのか、連絡を寄越した彼氏に垂れ流すように伝えてしまったくらいには、衝撃的だった。
「お前はその人の気持ちを真摯に考えてやるべきだよ」
木ノ瀬は冷静に言い放ち、通話を切った。すやちゃんはトイレの洗面台に寄りかかって、ぼんやりと照明を見つめる。しばらく思案していたかったが、別の客が入ってきてしまったので渋々岸の待つ席へ撤退した。
真摯。真摯とは? どうすれば良いのだろう。混乱している。岸はやさしい男だ。きっと自分を困らせまいと、ずっと本音を隠してきたに違いない。今回言ったことは、だから嘘じゃないのだ。
「……12時間だけ。俺にすやちゃんの時間を頂戴」
真面目な顔で言い、まっすぐに見つめてくる岸にかける言葉が見つからない。正しい方法もわからない。
「お願いすやちゃん。木ノ瀬さんには俺が説明する。すやちゃんはなにも悪くない。俺のわがままだから。頷いてほしい」
想いのこもった言葉が、思考を鈍らせる。すやちゃんは泣きたい気持ちで、ぎこちなく頷いた。
正解なんて知らない。ただ一つ、これは間違っているということだけはわかっていた。
今回に関する『約束ごと』は三つだ。12時間だけは、後ろめたい気持ちを持たないこと。素直に楽しむこと。それから、木ノ瀬のことはなるべく意識から追い出すこと。なるべく、というところに、岸の気弱なやさしさがにじみ出ていて、すやちゃんは承諾するほかない。
デートをしよう、と岸が提案する。『報告会』も、見ようによってはデートに近いかもしれないが、そういうことではないのはわかりきっている。
岸は男女の交際に対して案外夢見がちで、ティーン誌に載っているような付き合いがしてみたいと言った。ドキドキしながら待ち合わせ、普段は見ない私服にときめいて、ぎこちない距離を保ちながら出発する……みたいなやつである。幼馴染が胸に秘めていた『理想』に、すやちゃんは内心マジかよ、と思ったが、岸があまりにも必死に話すので、一度互いの家に帰って待ち合わせから始めることに同意した。
「ごめん、待った?」
「ううん。大丈夫。行こっか、すやちゃん」
なんのコントだ。でも、どうやら岸は満足らしい。楽しそうな顔をしているので、すやちゃんは野暮なことを言うのはやめた。
電車を乗り継いで、少し遠くまで足を伸ばす。どこへ向かうのかとすやちゃんが問うても、岸は「ひみつ」とにやにやするばかりだ。窓の外の景色は、シンプルになっていく。
「……海?」
「うん。ロマンティックでしょ?」
この日は木枯らしが吹いて冷え込んでいた。寒い日に綺麗でもない海に来てロマンティックもクソもあるか、とすやちゃんは思ったが、口をつぐむ。
「すやちゃんって本当、顔に出やすいよね」
それでも岸には丸わかりだったようで、彼は苦笑して、「でもそんなとこも好き。知らなかったでしょ」とからかうのだった。
海風に身を縮めながら、波打ち際に流れ着いたゴミを観察したり、ヤドカリをつついたりしてぼんやりとした時間を過ごす。岸は「こういうときは綺麗な貝がらを拾って思い出の品にするのが定番でしょ!」と言って、拾ってはポケットにつっこんでいた。
シーズンを外れた海辺は静かだ。天気だけは良くて、飛行機が飛ぶのがよく見えた。
「……木ノ瀬さん、何時の便で帰って来るの?」
彼のことはなるべく考えるなと言った癖に、気を遣って訊いてくる岸がおかしくて、すやちゃんが思わず笑ってしまうのは仕方のないことだ。
だってこんなにいい人がそばで想ってくれていたのに、気づかずに笑顔で彼の心を傷つけていたなんて、残酷すぎてそうするしかないではないか。
駅前に戻り適当な軽食を取って、また移動する。美しい夕焼けが視界を支配したのは一瞬のことで、もうすぐそこまで宵闇が迫っている。
車内も混みあってきて、背の低いすやちゃんは人の波に埋もれかけている。岸が気遣って、ドアのそばにスペースを確保してくれる。飛び出たのどぼとけはどう見たって性差を感じさせるのに、今の今まで気づかなかったなんて、どうかしている。
「すやちゃん、大丈夫? 苦しい?」
岸は彼女の暗い表情の意味を痛いくらいにわかっていたが、わざととぼけて、笑ってやる。すやちゃんの、笑った顔が好きだ。困らせているのは自分だが、現実とはままならないものである。
今度の目的地は、すぐに気づいた。すやちゃんは、何度も来たことがある。空港だ。岸は、遠慮がちに彼女の手に触れた。指先がひんやりとしていて、緊張がうかがえる。
「木ノ瀬さんが来たら、すぐに離すから」
すやちゃんは、ゆっくりとその手を握り返した。
「いいよ。木ノ瀬が来ても、離さなくて」
「それはダメ」
「なんで?」
「すやちゃんに好きな人が傷つくようなこと、してほしくない」
「……馬鹿じゃないの?」
「恋したら、みんな馬鹿になるよ」
少女漫画だったら。もし、ヒロインがすやちゃんで、ヒーローが岸だったら。きっとここで、すやちゃんは岸に惚れて、ハッピーエンドだ。でも、そうじゃない。それに、それを求めているわけじゃない。岸はしょせん当て馬で、彼女のヒーローにはなれないし、ならなくて良いのだ。
だって岸が一等すきな、彼女のあのやさしい瞳を、甘ったるい笑みを引き出せるのは、彼でしかない。
「楽しかった?」
大きなキャリーケースをゴロゴロ言わせてやってきたヒーローは、怒るでも悲しむでもなく、そう問うた。二人が手をつないでいるのを見て、状況を察したようだ。やはりヒーローともなるとテレパシーが使えるらしい。
すやちゃんは「あんたといるよりずっと楽しかった」と負け惜しみのように言い放ち、岸をぎょっとさせたが、木ノ瀬は「そりゃよかった」と軽くいなして、岸にまっすぐに向き直った。
「世話かけたね」
冷静な言葉。余裕がある。岸は、勝ち目などないということを改めて悟って、それから、心のどこかで勝とうという意思がなりを潜めていたことに初めて気づいた。でも、ここで砕け散って、終わりにしよう。
指先のちからを抜く。いとも簡単に、すやちゃんの手は離れていく。「岸くん」と呼びかけたすやちゃんに向けた笑みの弱々しさは隠せなかった。
「すやちゃん。付き合ってくれてありがとう」
まっしろなウエディングドレス。岸は思わず目を細める。それを真正面から見たすやちゃんは、「目つき悪いよ」とカラカラ笑った。
「今でもちょっと不安でさ。木ノ瀬と結婚するの」
この期に及んでそんなことを言う。でも、彼女の目はもう決まっている。
「じゃあ、俺と結婚してくれる? すやちゃん」
いつだかと同じような言葉を吐く。今回は、本音をきちんと包み隠せたらしい。すやちゃんは「それもいいかも」とおちゃらけた。
「すやちゃんの選んだ人でしょ。それなら安心だよ。なにも心配いらない」
自分じゃ彼女のヒーローになれない。こどものような欲望は、満たされることはない。現実とは、得てしてそういうものである。
照れくさそうにほほ笑むすやちゃんの小さな手を握る。左手の薬指に光る指輪の感触を刻みこみ、岸はようやく彼女に心から笑うことができた気がした。
「おめでとう。幸せになってね」
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