「どうしたらナマエは俺のこと好きになってくれる?」
一度開けたプルタブは、開ける前には戻せない。そんな当たり前のことを俺は今痛感している。自販機から落ちた缶コーヒーのプルタブをそっと撫でて、先程まで彼女が座っていたソファで一人項垂れた。あーあ。
うっかりものの弾みで肘を引っ掛けて、缶コーヒーを倒してしまった。幸いにも中身は殆ど残ってなかったので、食堂の机の上にコーヒーが広がる事は無かった。向かいに座った男−嵐山は、大層珍しいものを見たとでも言いたげな目線で俺をじっと見ていた。嘘も誤魔化しも知らない、そんな瞳に捉えられた俺は、何処か居心地の悪さを感じたが、事の始まりは自分なのだから致し方ない。
気が置ける仲の嵐山は、いつだって真っ直ぐに俺を信じてくれていた。それが嬉しくもあり、ある種の救いのようでもあった。これから話すことを聞いたら、果たしてどのように転ぶのか、俺は話す前から知っている。それでも開いた口は随分と重く感じた。
「言っちゃったんだよね」
「えっ」
誰に何を。それが不要である事を俺は知っている。そして理解した嵐山は驚いたことを微塵も隠す気がない。隠す必要もないのだから、当たり前といえばそうである。こいつはいつだって真っ直ぐなのだ、俺と違って。
「苗字は……いや、これは聞くまでもなさそうだな」
「はは、お前には敵わないよホント」
ナマエが何と言ったのか、俺の様子から察したであろう嵐山は人好きのする顔で俺に「不器用だな、迅は」と言った。その言葉が全てだった。俺は、いつから欲しいものを欲しいと言えなくなったんだっけ。
苗字ナマエという女の子は、誰からも好かれるけれど、どこか線引きをした関わり方をする、不器用な生き方をする子だった。大事にしすぎて、いつか来る失うと仮定した日を恐れているからだと、付き合いの長い俺は知っている。
一方で、彼女自身が死ぬ事で悲しむ人間がいる事には全く無自覚で生きている。大きな戦いのたびに無茶をするものだから、俺はその度に肝を冷やしているし、そんな愚痴を聞く度に嵐山は笑っていた。そんなに大事なら守れば良いと、それがどれだけ難しいことなのか。知った上で言いのけるのだから、タチが悪い。
『私が戦って、一人でも失う痛みを知らずに済むなら、私は喜んで駒になる』
そう言って真っ直ぐに俺の未来視を信じる彼女に俺は、いつだって言ってやりたかった。その中に、お前を失って悲しむ俺は含まれていないのか、と。
どうしても、俺の中の天秤は彼女を計りかねていた。彼女一人を失って俺が悲しんでも100人が救われる未来と、彼女一人を救って100人を危険にさらす未来。どれだけ割り切っていても、どれだけ大人ぶっていても、所詮20にも満たないガキなのだ、俺は。選択を迫られる日が来るまで、きっとどちらか一つなんて選べやしないのだ。
そして、それを伝えたら彼女はきっと微笑んで言うのだ。迅の未来視を信じていると。100人の人間の為に自身の身を喜んで投げ打つのだ。俺の知る苗字ナマエは、そういう奴だった。
特に行く宛を決めていた訳ではない。とりあえず会議の時間までボーダー隊員を視て回ろうと、個人戦ブースに足を運んだ。画面に映っているのはナマエと遊真の戦闘。正しくは他にも沢山のモニターがあったけれど、惚れた弱みだ。視線は素早く彼女を見つけ、それに見入っていた。決して弱くない彼女はどうにも戦いに身が入らないのか、着実に負けを重ねていた。
偶然通りがかった風間さん曰く、普段は頼まれても個人戦などやらない、やっても1,2戦で切り上げるナマエが朝からこんな調子でずっとポイントを削っているそうだ。
「苗字が黙々と個人戦に潜る時は大抵何か思い詰めている時だ」
誰に言うでもなく淡々と風間さんは言った。
事情を知らない筈なのに、さもお見通しだとでも言いたげに「さっさと認めてしまえ」と言われた。何を、なんて愚問にはきっと風間さんは答えてくれない。
「あれ、迅さんじゃん。個人戦?」
ひょっこりと現れた遊真は軽快な足取りで此方に寄ってきた。表情は如何にも満足です、と言っているようだった。
俺は投げかけられた質問に、午後から会議なのだと伝えると、ほうほう、と納得した様子だった。モニターでは次の戦闘が映し出されている。
「お、ナマエさん次はカゲ先輩とやってる」
モニターを見ていると、やはり彼女らしくない立ち振る舞いだった。この後も同じ調子なら、きっと彼女は10戦10敗を繰り返すのだろう。本当の戦闘ではないと分かっていても、俺はヒヤヒヤして仕方がなかった。僅かに裂けた首元からトリオンが漏出する。そこで俺は画面から目を背けた。
背けた先には、じっと俺を見つめる−嵐山とは似ても似つかない冷淡に射抜くような視線があって、一瞬息が詰まった。遊真の隣にレプリカ先生は、居ない。そういう未来を俺が選んだのだ。
「迅さんでも、つまんないウソつくんだね」
嘘を見抜くサイドエフェクト。それを彼は持っている。けれども、今の俺は何も言葉を発していない。なのに何処かその言葉は的を射ているような気がして、プルタブを開けてしまった俺は、ついに吐露してしまうのだった。
「遊真はさ、もしレプリカ先生と知らない奴ら100人の命の二択を迫られたら、どっちを選んだ?」
この問いは、自分への戒めのつもりだった。それは、単に遊真にレプリカ先生のことで責めてもらいたかったのかもしれない。俺だって間違えるのだと、そう現実を突きつけてもらって、今朝ナマエに未来を選ぶ事を押し付けてしまった事を、叱って欲しかったのかもしれない。ボーダーの誰でもなく、死を間近で見てきた遊真に。
「その例え、オサムでもいいか?」
「……メガネくん?」
「うん。その方が分かりやすいだろ」
何が、とはやはり聞けなかった。訊かずとも分かった気がしたからだ。
「オサムは自分の身は自分で守れるって俺は信じてる。だから、一緒に戦う事を選ぶと思うよ。それでも助けが必要な時は、俺がオサムを助けるし、俺がオサムに救われる時もあるかもしれない」
だって俺たちは一人じゃないから。
その言葉にどれだけの重みがあるのか、今このブースに居る人間の何割が分かるだろうか。そうだ、俺たちは決して一人で戦ってなどいない。一人一人が武器を持つ者として、戦地に赴いている。
「ナマエさんは強いよ。だからきっと迅さんの事も助けてくれると思うよ」
「はは……遊真、お前ホントに俺より年下?」
「戦場じゃ年齢も何も関係ないよ」
迅さんだって知ってるでしょ?と得意気に鼻を鳴らす遊真は、やはり年相応であった。それでも言葉の重みは確かに存在した。きちんと死に触れてきた。そういう戦い方をする、一人の少年だった。
何故ナマエのことを出したのか訊ねると、なんと個人戦の後に交わした会話に俺の名前が出てきたと言うのだから驚いた。曰く、「玉狛の一員として、迅を助けてやってね」と言われたそうだ。言われるまでもないと即答したらしい彼は、何処か誇らしげであった。
苗字ナマエは、何処までも危なっかしく、大人しく守らせてもくれない、けれど最後まで戦場で戦い続ける、そんな強かな女の子だった。そして俺もまた、そんな彼女を大切にしたくて随分と遠回りをしてしまった男の子であった。
会議室を出て直ぐ、ポケットに入れたスマホが通知を知らせる。メールが一件、嵐山からだった。内容は簡潔に一文だけ。
『今朝の自販機前にいる』
俺は画面を切るのもポケットにしまう事も忘れて、スマホ片手に急いで嵐山の元へ急いだ。今朝の、とは嵐山にとっての今朝ではない。言葉の裏には暗に彼女もいる事が書かれていた。
一日もくれてやる気は、俺にはもう無かった。そして、彼女のことを誰かにくれてやる気も。
果たして俺は、いつから欲しいものを欲しいと言えなくなったのだろうか。それはおそらく、彼女を欲しいと初めて自覚したときだった。彼女一人の命と知らない奴ら100人の命、そんな天秤、どちらを選ぶべきかなんて最初から明らかだった。何故なら彼女は俺に守られてなどくれないのだから。
「……迅?」
きょとんとした顔でこちらを見上げる彼女は、年不相応に幼く見えた。その裏、経験してきた事や考えている事は、遥かに大人びていることを、俺はずっと昔から知っていた。いつの間にか早足から駆け足になっていたらしく、俺は肩で息をしていた。
目の前のソファにはメールの主である嵐山と、一つ空けてナマエが座っていた。俺の姿を確認するや否や、嵐山はじゃあまた、と軽い挨拶を残して去っていった。嵐山に用があると思い込んでたであろうナマエは、随分とオロオロした様子で、とりあえず座りなよ、と自身の隣へ促した。俺は言われるままに座った。ソファの空席は嵐山の座っていた右端ひとつだけになった。
「迅大丈夫?トリオン体じゃないのにそんな走ったりして」
「いや、まぁ、急いでたから」
あんなやり取りをしたのに俺の身を案じてくれる彼女は、やはり戦う者なのだなと、今朝問いかけた内容を思い出して猛省した。
「迅……?」
「ナマエ聞いて」
「ぅえっ?!!」
逃がさないように彼女の手を包んだ。ホットミルクティーはまだ買って間もないのか、彼女の手越しに温もりを与えた。半分は彼女自身の温もりだろうけど。俺は出来る限りの言葉を探して、丁寧に、自身に言い聞かせるかのように言葉を紡ぐ。
「俺はナマエを守るから、ナマエは他の100人を救ってくれる?」
苗字ナマエは強い。決して大人しく守られてくれるような女の子ではなかった。それでも、俺の中には彼女を守りたいという、確固たる意志が存在していた。それでも彼女はきっと守られてくれるようなタマではないことをずっと昔から知っている。くどい様で申し訳ないが、そういう女の子なのだ、ナマエは。
そして俺はやはり大人になんかなれなくて、好きなんて陳腐な言葉では物足りないくらいに大切な彼女のことを、守ってやりたいという欲にまみれた、年相応の少年だった。
だから、これは俺なりの最大限の譲歩でもあり、最大限の我儘だった。俺だって欲しいものを欲しいと言わずにはいられないのだ。
「私、迅のサイドエフェクトを信じてるよ」
「うん」
「だからね、正しいとか間違ってるとか、そんなのいいの。だって結果だけみたら、誰かのことを救った事実しか残ってないし」
「うん……」
「それにね、どうしても正しいと思えなかった時は、やっぱり間違えたって思っていいんだよ」
だって私たちは間違いから学んでいくんだから。そう言ったナマエの表情はとても穏やかで、数時間前に観た個人戦の人とはとても同一視出来なかった。淡々と切り捨てていく彼女は、負け越していたけれどそれでも確かに強かった。彼女は強い。自分の身は自分で守るだろう。どれだけ俺が守りたいと思っても、守らせてなんかくれないのだ。だから、本当に守るべき時。その時に助けたら良かったのだ。それこそ、俺が直接でなくとも、仲間に託す勇気を、ほんの少し持つだけで良かったのだ。
「迅は一人じゃないんだよ。みんなで戦ってるの。未来視は確かに替えが利かないけれど、それ以外の事は一緒に出来るよ。なんなら、迅に出来ない事が出来る人だっているよ」
だから正しいとか間違ってるとか、そんなのはじめから無かったんだよ。彼女の言葉もまた、何処か自身に言い聞かせる様な空気を纏っていた。俺のプルタブは開いたどころか、勢い余って何処かに飛んでいってしまったのだろう。明確な愛の言葉なんて無かったけれど、答えは分かっていた。言わずとも、訊かずとも。
俺は彼女がこれ以上言葉を紡げない様に、そして俺が紡がなくて済む様に、掻っ攫うように唇を奪った。初めてのキスは、甘いミルクティーの味だった。