※離反夏油。あまり報われないので注意。
周りの静止を振り切ってひたすら駆けた。何処かへ行きたいわけでもないけれど、今止まってしまったら全てが壊れてしまう気がして、呼吸なんて知らないみたいにもつれかけた足すら誤魔化してただひたすらに。
動揺を隠しきれない夜蛾先生。
違和感を感じてた筈の五条。
否定も肯定も出来なかったと零した硝子。
(何故私には会いにきてくれなかったの)
夏油傑が離反し、死刑執行が言い渡された。そんな信じ難い現実を突きつけられたのは、その宣告が出てから3日後のことだった。タイミング悪く遠方出張だった私は、これまた運悪く電波も碌に無い場所に篭っていたせいで、同級生らからの連絡を受け取り損ねた。
寝る間も惜しんで高専に戻って飛び込んだ彼の部屋は、残滓すら残っていなかった。彼が苦悩しているのは知っていた。だと言うのに、私は彼の優しさを鵜呑みにして、取りこぼしたのだ。彼の擦り減って疲れてしまった心を。
行き場の無い感情は溢れて仕方ないのに、私はどうしていいか分からなかった。同級生達が最後に会った日を考えるともう周辺にはいないと馬鹿でもわかる事だ。私は馬鹿でよかった。もう会えない絶望よりも、会える希望を持てる方がまだ私は前を向けたから。
「あっ、」
出張先で散々呪力を使い切って寝ずに東京に戻って、そこから何時間も走っていたような気がする。いや、何時間は嘘かな。もうそんな事どうでもよかった。とうとう限界らしかった両足は見事に膝小僧をズル剥けていて、全体重かかればこうもなるか、と何処か他人事のように血が溢れ、流れていく、その一連の流れをぼうっと眺めていた。
あたりはすっかり暗くなっていて、いつの間にか迷い込んだ小さな公園には私以外の姿は無かった。なんとか力を振り絞ってブランコに腰掛けると、キィ、と切なさに拍車をかけるような耳障りな音がした。
『夏油くん、やっぱり夜蛾先生に言って休もう、限界だって顔に書いてある』
『忙しくてレンタルしてた映画が期限だったからつい夜更かししただけさ。紛らわしくてごめんね』
映画なんて借りに行く余力も無かったでしょ
『ご飯食べた?まだだったら私と』
『もう頂いたよ、また今度一緒に食べよう』
彼の箸が使われた形跡は久しく見てない
『私この映画観に行きたいんだよね』
『いいね、悟も誘ってみんなで行こうか』
先行チケット、貴方の分はどうしたらいい?
恐れずにもう一歩、足りなければ更に一歩。踏み込むべきだった。彼の心が粉々に砕けてしまうくらいなら、嫌われてでもそうするべきだった。果たしてその行為が彼の為か自分の為かは分からないけれど、現在が最悪の結末である事だけは確かだった。膝の傷口は明らかに酷いものなのに、痛みを感じない。よく人間は過度なストレスに対しては心が麻痺すると言うが、今がそれなのだろうか。それならこの、彼にぶつけたくて仕方ない感情も全て麻痺してくれないか。いや、涙が出ない。麻痺してやっとここまでの感情に落ち着いているのか。そんなことってない、私、どうしたら良かったの。これからどう生きていけばいいの。
「……さいてい、げとうくん」
「知ってるよ」
突如頭上に降りた影と声にもはや反射的に顔を上げた。高専の制服ではない、最近の中では比較的元気に見える顔色。喜ぶべきなのに、捻くれ者の私は喜べなかった。
私では彼の救いになれなかったことの証明だからだ。
言葉を失った私を他所に、目の前にしゃがみ込んで私の膝の容態を診ている。ふむ、と何を納得したのか知らないが、彼はのすのすと蛇口で彼自身のハンカチを濡らした。痛いだろうけどごめんね、と言って傷口の泥を拭き取ってくれたその手は、とても人を殺めた手とは思えない程優しいものだった。
「……どうしてここにいるの」
「君とだけ未だ最期のお喋りが出来てなかったからね。出張先電波無かっただろう?お疲れ様」
まるで会話だけ聞いたら日常と変わらないのに、何故こんなにも変わってしまったのだろう。ぐっと喉が狭まった感覚から、ようやく私は泣くことが出来ているのだと気づく。
本当だよ。夏油くんのせいでどれだけ疲れたと思ってるんだ。こちとら連日碌に寝てないまま帰ってきて、このザマだ。
「みんなからある程度聞いてるのかな?」
しゃくり上げる己を必死に抑えながら質問には首肯で返す。聞いたよ。硝子にも、五条にも。術師だけの世界を作るなんて、どこまで本気で考えているのだろう。私は術式で使うタクトをそっと取り出した。
「……君は、私を止める為に殺すかい?」
「どうして連れてってくれなかったの」
特別呪力を流していないタクトを意味もなくゆらゆらと振るう。彼は何も答えない。答えられないのだ。そういう人だと私は知っている。人一倍繊細なくせして、人一倍自己犠牲の精神がご立派なのだ、夏油傑という人間は。だから彼は、恋人である私を置いていこうとしている。一方で、無情になりきれないから最期に会いにきた。ちぐはぐだ。笑い話にもならない。
「ねぇ夏油くん。連れて行くなら私の手を取って。そうしないなら今この場所で私を殺して」
「何を言い出すんだい」
手を取る素振りを見せない彼に見せつけるように手遊びしていた術式の基となるタクトを両手で掴む。非力な私でも少し時間をかければ折ることくらい容易いだろう。みし、とタクトが悲鳴を上げた瞬間、一回りも二回りも大きな手がそれを止めた。何をするんだと視線でじっとりと訴える。
「何するの」
「それはこっちの台詞さ」
「術師じゃなくなれば私も猿ね」
殺す理由になるね。殆ど温度の無い声に本当に今話しているのは自分なのか疑いたくなる。しかし事実、タクトを折ろうとしたのも、それを制止されて苦言を呈したのも、私だった。
まるで駄々を捏ねる子どもにでも見えるだろうか。どうせ置いていかれるならどうでもいいや。いつもの下がり眉が特徴的な困り顔で私を見下ろす彼は、今何を考えているのだろうか。
「君だけは幸せになってほしいんだよ」
「同級生を、しかも恋人だった人を殺せと言われて、幸せになれると思った?おめでたい人ね」
充分傷ついて、限界を迎えて今の呪詛師・夏油傑が生まれたというのに、私という自分勝手な人間はひたすら彼を傷つける言葉ばかり吐くから自己嫌悪でどうにかなりそうだった。いや、もうなってるのか。
高専の彼の部屋だった筈の場所を見た時に、私という人間もまた壊れてしまったのだ。あーあ。突然自嘲じみた笑いを漏らした私を見て、夏油くんは私の手からタクトを取り上げてしまった。ああ、殺す事に決めたのかな。最期の景色が最愛の人なら私は幸せだったと言えるだろう。彼の顔を焼き付けた私はそっと目を閉じた。彼の呪力が揺らめいて、呪霊操術を使う気配を感じ取った。そこで意識は途切れた。
「守れなくて、幸せに出来なくて本当にすまない、こんな私をどうか許してくれ」
「傑くん、私はいいから行って。やるべき事をやり遂げて」
血溜まりの中に浮かぶ私を見下ろして、いつかの夜より随分と伸びた髪が、私の頬をそっと撫でた。
あの夜から、私は一度だって貴方を恨んだことは無い。貴方と共にある事全てが美しいものに見える、そんな幸せな人生だったよ。私を愛してくれてありがとう。見届けることは叶わないと分かっていた。だからせめて、貴方の最期だけはせめて、幸せなものでありますように。
遠のく意識の中、彼の温もりを感じた気がした。あの日折るはずだったタクトは、私の掌から零れ落ちて、割れた。
呪詛師 夏油 傑及び、苗字 ナマエ両名
呪術高専敷地内にて重体で発見。死刑に処す。
執行者:五条 悟
そうして世界は灰色に