沈黙が支配する黒塗りの車内に突如、春からすっかり聴き馴染みとなった呼び出し音が鳴り響く。補助監督はフロントガラス越しに謝罪を述べて、近場のコンビニで駐車した。いつもなら待つ時間にダラダラと品定めにでも行くのだが、ドアのロックに手をかけたところで、聞こえてきた名前に俺は車中から逃れることは叶わなかった。
「えっ二年の苗字ナマエさんが?はい、はい……分かりました、注意して見てみます」
ナマエさんが、消えた。
俺は探しに出ると騒いだが、一度詳細を確認しようと補助監督の尤もな言葉に黙ってシートに座り込む。頼まれた通り高専への帰り道、残滓ひとつ取りこぼさないように彼女の痕跡を探した。電話越しの数少ない情報として、連れ去られたとかそーゆう事件性は無いらしい。彼女は己の意思で消えたのだ。
温和な雰囲気に反して強かで、規律をしっかり守る恐ろしい程お手本のような先輩が、こんな騒ぎになる失踪の仕方をするなんて思えなかった。
補助監督と駆け込んだ職員室は、夜蛾セン以外にも生徒や捜索にあたっていたであろう補助監督達が集っていた。腕組みをしてどこか落ち着かない様子の夜蛾センは、部屋の出入りが落ち着いた所で、今日ナマエさんと同行していた補助監督に何か変わった様子がなかったかを尋ねた。
「苗字ナマエさんの今日の任務は二級討伐。いつもと変わらず一瞬で祓い終えてしまいました。おそらく原因があるとしたら、その後に遭遇した呪詛師かと」
「呪詛師?ああ、報告にあがっていたな」
「そちらも滞りなく対処してくれていました。帳が上がった途端、『呪詛師の死体を運ぶから手伝って』と。流石の私も予定外の事で驚いたのに、呪詛師の身体を引き摺る彼女は、ほ、本当にいつも通り、でした……」
本来なら『いつも通り』であることがおかしかったのだと、その補助監督は言った。一年の頃から面倒を見てきたのに、見落としてしまった悔しさが眉間にありありと出ている。呪術師という仕事をしていれば、いつか何処かで霊ではなく呪詛師という人間を手にかける日も来る。それは頭で理解していても、ナマエさんには早すぎたと、とうとう補助監督は泣き出してしまった。
ナマエさんは今日、人生で初めて人を殺めたのだ。どれだけ法的に許されていても、心の処理が追いつくかは別の話だった。
「悟、連れて帰って来れそうか」
迷いなく夜蛾センから投げかけられた言葉は、質問のていを装った頼みであった。傑までこちらを窺うように黙って俺の言葉を待っている。余計なことは言わずに待ってくれる辺り、後で貸しだとか言われそうだな。
「俺、天才なんで。余裕っしょ」
泣き崩れてしまった補助監督とすれ違うように職員室を後にする。すれ違う瞬間、つい口から「情報あんがと」とらしくない言葉が出ていた。
日は間も無く落ちようとしていた。水平線上には今にもとぷんと音を立てて消えてしまいそうだった。……俺の数メートル先、波風に髪をなびかせ膝下まで海に浸かった先輩のようだった。いつかお気に入りだと教えてくれたワンピースは、海面ギリギリでふわりと揺蕩っていた。
電車の額越しに見えた時は、今にも消えそうな憧憬だと焦ったが、いざ目の前にするとそんなことはなかった。様々なものが刹那的な中で、彼女だけはしっかりとそこに存在していた。どこまでも強くて、強すぎる。だからこそ苦しいのだろうと、ぼんやりとその背中を眺めた。
「五条」
俺の名を静かに呼ぶ声は、矢張り『いつも通り』だった。此処に居ますよ。そう返してやるとナマエさんは、こちらに振り返る事もなく、前進する事も後退する事もなく、淡々と話し続けた。
「今日初めて呪詛師討伐にあたったよ。あ、元々は呪霊討伐だったんだけどね。体術得意なタイプの人でさ。まったく、五条達にたくさん投げられたの無駄じゃなかった。おかげで生きて帰ってこれたよ」
有難うね、そう言ってようやく此方を向いた先輩はいつも通りの笑顔ではあったが、キチンとその頬には涙が伝っていた。
返答に思案したのち、俺は海面を無下限で歩いてナマエさんの目の前まで行き、彼女を引っ張り上げる。ブーツサンダルが少し水を吸っていたが、抱きかかえた彼女は変わらず軽いままだった。『いつも通り』である。帰ると思っていたらしいナマエさんは、日の落ちる先に向かって更に海面を歩き進んでゆく俺に驚いたのか、目を丸くしてごじょう、と零した。
「なあナマエさん。此処には誰もいねぇよ。俺とナマエさん、あと家路を急ぐ鳥ぐらい?」
言い切る前に彼女は痰を切ったように声を上げて泣き出した。俺の学ランを掴んで、壊れたように感情を露わにする姿は正しく慟哭というのだろう。間も無く闇に包まれるであろう海よ、どうかそのまま彼女の悲しみも連れて行ってくれるか。
イカれてないと術師は出来ない。
先輩も俺もキチンとイカれていた。
それでも、意思を持って人を殺めるのは彼女の心を傷めるには充分だっただろう。温和で後輩想いで時に強かな苗字ナマエは、術師である以前にまだまだ大人になれない少女なのだ。どれだけイカれても越えてはいけないラインの前で、彼女は泣いていた。
一年以上の付き合いになるという補助監督の前でつとめて『いつも通り』だったのも、ナマエさんに言わせれば"苗字ナマエの心"と"補助監督の心"を天秤にかけたにすぎない。補助監督の女性もまた何処か優しすぎるところがあった。それ故に在学時は術師だったにも関わらず、最後には補助監督を選んだのだと、いつだったかナマエさんと2人で任務に向かう最中に本人から聞いた。優しさが首を絞める仕事だと痛感したからこそ、術師に寄り添ってこの仕事を全うしたいと語る姿はずいぶんと晴れやかだった。
理由が何であれ、人を殺めた事への罪悪感や悲しみをナマエさんが露わにすれば、それを見てまた彼女も自身を責めるだろうと、補助監督の道を選んだ彼女を敬い慕うナマエさんは考えたのだろう。
果たして、ナマエさんの優しさに救われる存在が俺含め多く存在する中で、ナマエさん自身のことは誰が救えるのだろう。
いまだ慟哭の響く水平線の上で抱きしめたナマエさんはいつも以上に小さくて、儚い。何処までも広がってゆく海は、とうとう夜の帳に包まれた。
「五条ごめん。任務後にこんな時間まで、疲れてるよね……」
「べっつにー。少しは気が紛れた?」
ギリギリ終電の数本前に滑り込んだ俺達は、無人の電車の中で、けれども声を潜めてやりとりをしていた。決して気が晴れたか、とは言わない。そう簡単に晴れるのなら、この人は衝動的に駆け出すようなことはしない。
騒動に発展している事を知らないらしい彼女には特別何も言わず、こっそりと連絡帳から夜蛾の名前を探して帰路に着いたことをメールした。送信完了の文字列を確認した俺は電源ボタンを長押ししてガラケーを学ランのポケットに突っ込んだ。
「俺久々にナマエさんとラーメン食いてーなー」
「この時間、あいてないよ?お店」
「部屋の簡易キッチンで作ってよ、インスタントの。茹でるやつ」
ぱちくりとこちらを見て暫く、ナマエさんは「私のストックだと一人前ずつしか作れない……」と言い出して堪らず笑ってしまった。そこはこんな夜中に女子寮に来るなとか、作ってとか図々しいとか、他にも言うことがあるだろう。
だと言うのにナマエさんは、俺が満腹になれるかどうかを一番に気にかけてくれた。嬉しくて仕方がない。これだけで今日彼女に費やした時間も労力も報われるどころかお釣りがくるだろう。俺はひぃひぃ続く笑いを抑えてようやく一人前で十分だと伝える。すると彼女は花が咲いたように笑って、一人前しかないから卵落としてあげるね、と言った。十二分だ。最高、とニンマリと笑ってみせた。
そんな日常のやり取りをする中で『ナマエさんの心を救えなくてもいいから、少しでも紛れてくれ』と願っていた。
実はこの時既に、俺がいるだけで彼女にとって救いは『十二分』であったと、結局呪術師であり続けた彼女に教えられるのは、俺の一人称が僕に変わり、そして五条呼びが名前呼びに変わる−−そんなまだまだ先の話である。