すっかり水分を吸い尽くしたスーツは、もう受け入れきれない降り注ぐ雨をそのまま地面へと、大きな雫を落としては水溜りを作ってゆく。私の心もそうやって零れ落ちて仕舞えばいいのに、そうはならないから中途半端に頑丈で困ってしまう。
そう、私は全てにおいて中途半端だ。
術師の家系に生まれようと普通に生きたいと普通校に進学したが、やはり見えてしまうものを見なかったことには出来ずに結局高専へと編入した。親には随分呆れられたが、何も責められなかっただけ優しさがあったのだろうと思う。
呪術師としても昇級出来ず数年を過ごして、道半ばで補助監督に転向した。白髪の彼は迎えに来た補助監督苗字ナマエに驚きのあまり言葉を失っていたのは中々笑えたと思う。そう思わずにはやっていられなかった。
「全く何してんの?風邪ひくから帰るよ」
「……五条さん」
「仮にも元同級を、さん付けはどうなの?お前」
私を覆った影は、そこらのコンビニで買えそうなシンプルなビニール傘を私に少しだけ傾けていた。傘なんてもの、君には不要だというのに何故持っているのかなんて、訊くだけ野暮である。
「詳細は硝子から聞いてる。ナマエは早く帰ってゆっくり休みな」
「……なんで」
「何が」
「なんで私のことを誰も責めないのよ?!!」
今日、五条悟は教え子を亡くした。補助監督についていたのは、私だ。私がもっと手厚いサポートが出来ていたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに。何故、学長も硝子も、誰も私を責めてくれないのだろう。救える命だった。私が、わたしが、補助監督ではなく術師であれば、戦うことを許される存在であれば、目の前であの子が死ぬことはなかったのに。
「呪術師は、死ぬよ。それは皆平等だって一緒に習っただろ?」
「教え子だったのに私の事を憎いと思わないの?」
「いや?寧ろ喰われてもなお悪足掻きで祓い切って、補助監督には手出しさせなかった。術師として出来ることをやり切ったアイツを僕は誇らしく思うよ」
「私が、術師だったら助けられたのに」
「お前がまだ術師やってたらそもそも同伴してねーじゃん」
困った風に息を吐き出した五条は、半ば強引に私の腰に腕を回してから、数回の転移を経て保健室へと私を連れてきた。硝子はずぶ濡れの私を見て何かを察したのか、そっと大判のタオルで私を包んだ。とっくに敷地内で屋根があるというのに、一向に雨は止まない。ぽたぽたと頬を伝って落ちた雫は、タオルにしゅん、と簡単に吸われてしまった。
「アタシはナマエのロッカーから着替え取ってくるから、五条、お前はドライヤーかけてやって。気休めにはなるだろ」
「はーい家入せんせー」
「殴るぞお前」
パタパタと硝子が保健室を離れていく音を掻き消す様に、美容師みたいな振る舞いでドライヤーをかけ始める五条に、私は沈黙していた。していたというよりは、何を言えばいいのか皆目検討がつかなかったことと、もうそこまで考える程の気力が残っていなかった。
「ナマエお前さ、もっかい術師やってみなよ」
「……は?」
「温風で聞こえない?呪術師、戻りなよ」
突然の提案に思わず振り返って五条の顔色を窺ってしまった。何か裏の意図がある訳ではないと、長年の付き合いで培った勘は言っている。果たしてコイツは何を言っているのか。弱いヤツは疲れると散々ほざいていた口が、弱者に類される術師だった私の心を折った口が、一体何を言うんだろう。
「……強くない人間がやっていい仕事じゃないよ、呪術師は」
「お前別に弱くなかったじゃん」
「でも二級止まりだった、七海くんは一級に上がれたのに」
「僕はお前もいつかなると思ってたけどね」
どうせ呪術師を名乗るなら、誰かを守れる人でありたかった。強い人になりたかった。だというのに私は、任務ではいつも足を引っ張っている様な気がしていた。周りはどんどん昇級していく中で、私だけが取り残されていくのがただただ辛かった。夜蛾先生は「昇級してなくてもきちんと強くなっている」と言ってくれたけど、一瞬で終わる任務についていくだけの私に、一体どんな価値があったというのだろう。
「……お前さ、自分の強みを理解してないから強くなれないんだぞ、分かる?」
「何、言って」
「まず剣術がヤバかった。術師なのに豆潰れるまで竹刀振るとか正気じゃないね。それと分析力とその速さはアイツも一目置いてた」
彼の言うアイツ、とはきっと夏油くんの事だろう。果たして、彼の雨はもう止んだだろうか。
「そもそも、戦闘向きじゃないお前が、前であんだけ戦えて、術式で補助にも回れるって、充分つえーじゃん。なんで呪術師辞めたのか未だに僕謎なんだよね」
「……強い人には、分からないよ」
「分からないよ。だからちゃんと教えろよ」
私を包んでいたタオルごと引かれて、いとも容易く彼の胸中へと収まってしまって身動きが取れない。学生時代はもっと細いシルエットだったのに、いつのまにここまで筋肉をこしらえたのだろう。立ち止まってしまった私と違って、彼も硝子もちゃんと前に進んでいるのかと、また自分の弱さを感じて雨が強くなる。
「僕は、呪術師として戦うお前が好きだったよ」
補助監督でサポートしてくれんのも悪くないけどさぁ。そう間延びした声で言った五条は、私の肩に顔を乗せたまま体重をかけてきた。正直重いから勘弁してほしい。
「ねぇ、次は呪術師として、僕の生徒を守ってよ。戦闘向きじゃない術式を持つ人間だって、立派な呪術師だって、教えてやってよ」
「無理だよ、五条覚えてないの?一緒に任務行った時、私が祓ったことなんてあった?」
「そりゃ恋心拗らせた屑が、良い所見せようと必死になってんだからナマエに手出しさせないだろ」
「……硝子お前言うなよ、昔渡したカートン返せ」
「お前が蒔いた種だろ。勉強代だ勉強代」
いつのまにか戻っていた硝子が、私の着替えをベッドの上に下ろしながら呆れ顔で五条をいなしている。拗らせた?恋心を、あの五条悟が?弱いヤツは疲れるのに、弱いヤツを好きになれたのか、コイツは。
「お前まだ自分が弱いとか思ってんの?俺達の学年だけ飛び抜けて強かったの、知らねーの?」
「……そりゃ五条は強かったし硝子は貴重な人材だったけど」
「お前も俺と同じクラスだったろ」
すっかり素が出てしまっている彼は、これ以上の否定は許さないとでも言いたげに、強く言い切った。同じクラス。確かに机を突き合わせて過ごした時間は嘘ではない。嘘ではないからこそ、私は己を知って補助監督になったのだから。
考え込む私に「とりあえず身体拭いて着替えろ」とベッド脇に引き込んだ硝子は、有無を言わさずカーテンを閉めてしまった。これ以上床を濡らしてもいけないので渋々着替え始める。カーテンの向こうでは何やら噛みつく五条を硝子が説き伏せているようだったが、内容までは聞こえてこなかった。瞼が重い。少しずつ動作が緩慢になって、ようやっとすべての水分を拭き取って着替え終えた時には、私はベッドの上で重い瞼を閉じ切ってしまっていた。ああ、濡らしてしまった床を拭かなきゃいけない、のに……
「……寝たか?」
「寝た寝た、これは暫く起きないヤツ」
「はぁ……五条お前いい加減にしろよ」
「硝子が言ったんじゃないの、拗らせてるって」
「本当に壊れる前に何とかしろと言ってるんだ、恋愛云々は抜きにしてだ。分かるか?」
泣き腫らしたナマエの目元は痛々しいものだった。教え子の訃報が届いて任務地から急いで高専へ帰れば、硝子にナマエが補助監督だったと告げられた。呪術師をやっていれば死体も残らない事もあるが、僕の教え子は上半身だけは綺麗に残って帰ってきていた。怖い思いをした筈なのに、届いた死体の表情はなんとも穏やかなものだったと硝子は言う。
『最後にどんな言葉をかけたんだろうな、アイツ。久々にあんな良い顔の死体拝んだよ』
元々呪術師として何年も戦ってきたナマエだからこそかけられた言葉がきっとあったのだろう。それが何だったのか、もう知る術は無いのだけれど。
未来ある生徒を失うのは確かに悲しい。けれど、呪術の世界に居る以上、生徒云々は抜きにして割り切らなくてはならない。最後まで寄り添ってくれていたであろうナマエにお礼を言うべく、高専内を探して回った。途中で捕まえた伊地知に彼女の居所を聞けば、なんと真面目な彼女らしくないことに、報告書が途中のパソコンを置き去りに姿が見えないのだという。
僕は高専を飛び出して、急いで高専近くの高台に向かう。一人になりたい時の彼女は、いつもあそこで立ち尽くしている。そして一人で感情に蓋をして、ケロッとした様子で帰ってくるのだ。そうやって、いつだって"俺たち"に寄り添うことを許しちゃくれなかった。彼女が補助監督に転向したと知った時には、いよいよ前線を共に戦う同級がいなくなってしまったと、内心悲しみに暮れていた。勿論ナマエが決めたことだから、悲しいなんて口が裂けても言わなかったけれど。
「やっぱりこいつ補助監督向いてないよ」
「それは私も同意だな。でもコイツは頑固だから、呪術師に戻ると言うイメージが無いな」
「いや、絶対戻るって言うと思う。ってか言わせるよ。まあ結果的に術師に戻らないとって感じになるけど」
「……何企んでるんだ?お前」
「いやー、副担任って響き良いよねぇ。僕担任だからさ、補助してくれる子欲しかったんだよ」
驚いた硝子が暫く沈黙したが、思考が纏まったのか、ふふ、と笑いを漏らして「確かにコイツに向いてるな」と言った。学生時代の後輩からの人気はダントツだったナマエの事だ。きっと良い師となってくれるだろう。その時求めるのは呪術のことだけではなく、心のケアも含めて、だ。一度折れてしまった人間だからこそ伝えてくれるものがある。僕には出来ないことを、きっと彼女はやり遂げてくれるだろう。何より、傍でお前のことを見守ることが出来る。次はこんな風に泣かせたりしない。だから早く起きて僕の提案に頷いてくれ、僕がお前を守るから、お前は術師として生徒を守ってくれ。
そんな祈りを込めて、未だ眠る彼女にキスを落とした。