ぱたん。
不意に閉じられてしまったノートパソコン。の、向こう側から見えたのは『黒尾 鉄朗』と書かれたネームホルダー。重怠い頭をなんとか動かして赤い紐に沿って視線を上げれば、普段は飄々としている彼の複雑そうな表情が映った。なにか、気に障るようなことをしただろうか。いや、ここ数週間は双方共に多忙を極めていてそもそも碌な会話すらなかった筈だ。
「送ってくから上着着て。今日はもう閉店です」
「黒尾さん、あの、」
「今日は黒尾さんも閉店でーす。」
「……私、鉄朗に何かした?」
おずおずと伺いたててみれば、ドア前で振り返った鉄朗が目を丸くした。え、本当に何。反応の意図が汲み取れないまま私が歩き出せずにいると、バッグをひったくられていよいよついていく他無くなってしまった。小走りになりながら最後に会った時のやり取りに不備がなかったことを確認して、スマートフォンに通知の見落としがないか念入りにチェックする。矢張り思い当たる節が無い。一体どうしたというのだろう。それなりに長い付き合いなので、私に対して怒っていないことだけは確かだが、初めに見せた表情から"何か"に怒りを覚えているのもまた確かだった。
いつの間にかフロントに着いたエレベーターがチン、と軽快な音をたてた。考え事に没頭すると周りが見えなくなるからいけない。再び長いコンパスの鉄朗を追いかけていくが、気づけば小走りする必要はなくなっていた。
「お前さぁ、何仕事押し付けられちゃってるの?何かあったら言えって言ったよね?」
「あー、そういうことかぁ……」
「そういうことですヨ」
あの子、黒尾さんと同期だからって馴れ馴れしいよね。そんな隠す気が微塵もない給湯室の雑談とは名ばかりの、陰口。言いふらす事でもないから言ってないだけで、私達の関係は友人の枠に収めるには難しいものだ。それも学生時代にまで遡る。私が首肯さえすればすぐにでも同棲を始める勢いの鉄朗をなんとか制して『仕事とプライベートはきちんと分けたい』と伝え今に至るが、気をつけていても周りには如何してそう映ってしまうのだろう。
そこから始まった、いじめと言うには些か線引きが難しいラインの雑事の押し付け。子どものお迎え、合コン、友人との約束、エトセトラエトセトラ……最近は面倒になって理由を話し出す前に笑顔で受け取って御用聞きするようになった。どうせ嘘なのだから、聞くだけ時間の無駄である。そんな暇があるなら少しでもキチンと仕事を進めたかった。
「そこで少しでも早く片付けたいってならねーのがナマエだよなぁ……知ってたけどさぁ……」
「だってあの人達のまとめた資料読みたい?私は思わない。分かりにくいったらありゃしない」
「ソーユートコ本当変わんないね、お前」
「巡り巡って鉄朗の支えになる資料だもの」
呆れ顔だった鉄朗が途端に真顔になる。少しだけ開きかけた口は、そのまま言葉を飲み込んでしまった。この日の会話らしい会話はここまでで、家の前でおやすみと言われたのが最後となった。
翌日から鉄朗は世界各地を飛び回るべく、職場に暫く現れなかった。とはいえ元々部署も違うので、ある意味日常といえば日常だった。少し違うことと言えば、何故だか仕事を押し付けられる事がなくなった事だろうか。(陰口は相変わらずのようだが)
定時を少し過ぎた辺りで作業に区切りのついた私は、そっとノートパソコンを閉じて部署を後にした。今日は鉄朗に頼まれた餌付けの日である。
「毎回言ってるけど、餌付けって言うのやめて」
「言われたくなかったら自立してくださーい。ほら、冷めちゃう前に食べよう?」
「……いただきます」
都内だけど少し郊外にある平屋の一軒家に住む狐爪研磨は鉄朗の幼馴染であり、私にとっては学生時代の後輩だ。時折鉄朗が様子を見に来ては世話を焼くのだが、今回のような長期出張の際は私にご指名が入るのだ。配信者として稼いでいるので資金は潤沢なくせに、こと身の回りのこととなると面倒くさがるのは昔から何も変わらない。そんな彼に何処か安堵している自分がいるから不思議だ。
「ていうかさぁ…早く同棲してあげなよ」
「何か言われたの?」
「クロ来る度にその愚痴ばっか、もう聞き飽きた」
「聞き飽きるほど二人は会ってるんだ?」
「茶化さないでよ……」
あまり表情に出ない研磨が此処まで顔に出すとは相当だなとは思うが、私に言われても困ってしまう。なんせ二人の問題を第三者に相談したのは他でもない鉄朗なのだから。
最後の咀嚼を終えて食器を片付けようと腰を上げかけた時、研磨のスマートフォンの通知が鳴る。普段はサイレントにしているから珍しいこともあるな、なんて思いつつ手際よく食器を洗っていく。ひと通り終わって炬燵に戻ると、無一文に閉口した研磨が未だスマートフォンの画面に視線を落としていた。ぴたりと止まっているあたり、返信に悩んでいるのだろうか。
「研磨、仕事の連絡?」
「あー……ナマエさ、此処らで良い花屋知ってる?」
「それならいつも使ってるお店が……名刺?場所だけ分かれば良い?」
「場所だけで平気だと思う」
「リンク送るね」
研磨の仕事相手で花屋とは、これまた珍しい組み合わせだな、なんてぼんやり思う。けれど仕事であれば深入りするつもりはない。其処となく流してその日の会話は終わった。
鉄朗は午後から久々の出社なのだと、女性社員たちが賑わっている。随分と長い出張で疲れているだろうに、午前休だけで出てくるなんて、一体どこまで仕事人間なのだろうか。……とは思うものの、仕事が趣味のような私達はそんなもんである。私もきっと家に居ても落ち着かずに出てきてしまうだろう。空になったお弁当箱を仕舞って、午後のおともに何か飲み物でも買い足そうかとフロントに向かう。そこでようやっとあの日の研磨の"仕事相手"が誰だったのかを知る。
「黒尾さん、此処一応職場玄関なんですが」
「もうちょい可愛い反応くださいよ、苗字サン?」
目の前に立つ鉄朗は出社したばかりで、冬用のチェスターコートを羽織ったまま、片手はポケットの中に、もう片方は何本あるかぱっと見では分からない程のたくさんの紅が咲いている。どこかあべこべな姿なのに、どこか見たかった光景のように思えて思わず何度も花束と彼の表情を往復する。
「いやー、もうね、ウンザリしちゃったのよオレ。ナマエが何とも思わなくても、オレのせいでちょっかい出されてるとか、オレが嫌なわけですよ。じゃあもう公然の事実にしちゃえばいいかって思いまして」
「黒尾さんにしては極端というか、匙を投げた?」
「そーゆーことでいーよ。だから、さ」
これも受け取ってくんない?そういって突っ込まれたままの手とともに現れたのは、ベルベット仕様の如何にも高級だと分かる小さな箱。周囲からは囃し立てる声、悲鳴に近い声。そんな騒がしい中でも、彼の声は真っ直ぐに私の鼓膜を響かせた。
「ナマエを守る口実の為に、結婚してくれませんか?」
いつも通りのうっすら口角を上げた笑みで私に問いかける彼は、返事なんてあってないようなものだろう。君が勝ち確の質問なんてつまらない事するのは、恋愛事情だけだって、私だけが知ってるんだからね。