「はぁ?!転居先解約したぁ?!!」
『詳しい話は直接するから!とりあえずごめん!!』

 がちゃん、ツーツー。とりあえずごめんって何だ。ごめんで済めば警察は要らないとかなんかあったな、なんてくだらない事を考えなければとてもじゃないが理性を保てなかった。司が加護家を出るというものだから、丁度折よく更新が近かった私は新天地で同棲に踏み切る事にしたのだ。……だと言うのに、だ。吟味に吟味を重ねて選んだ新居を無断で解約し、一方で自分はそのまま名古屋に一人残るというではないか。いや、私自営業のリモートワーカーなんだからそこは連れてけよ。何一人暮らし始めようとしてるのさ。
 怒りは未だ収まる様子は無かった。しかしそれなりの年数一緒にいれば、電話越しの声色ひとつで彼にとっての転機になる何かが起きた事ぐらい容易に想像出来てしまった。

(こりゃ本人前にしても叱れないな……)

 苦笑を漏らして、さて手元のキャリーケースと何処に行こうか。先ずはそこからだった。前の家は引き払ってしまったし、とりあえず次が決まるまで加護さんに土下座する事にした。司が使っていた部屋を少しの間借りよう、今の私にはそれしかなかった。





「司がコーチ?しかもフィギュアの?」
「正直あの時も今も、保護者の視線が痛いのよ……」
「まあ、この世界の親って大半が昼ドラだよね」
「ナマエちゃんにも悪い事しちゃったわ、ごめんね?」
「瞳さんが謝る事じゃないですよ!本人が決めた事だし、なにより……」
「あんなに楽しそうにされちゃあ怒れない、か」

 突然の解約宣言から数日、なかなか時間の取れないらしい司本人に代わって旧友でもある瞳さんから事情を訊いた。司からしたら縋るような思いもあったのだろう。恐ろしく吸収の良いいのりちゃんと並走する姿にホッとしている自分がいた。どんな形であれ、スケートリンクの上に残ってくれたことが嬉しかった。脳裏に焼きついた美しい彼のスケーティングは今でも健在のようで、司にきっかけを与えてくれたといういのりちゃんも、司の滑りをみて目を輝かせている。

 結果が全て。それは残酷だが真実だ。

 けれど、だからといって表彰台に上がれなかった者の努力が消え失せてしまうわけではない。ちゃんと其処には積み上げてきたものが存在していて、またそれに感動を覚えた人々も存在するのだ。

「で、ナマエちゃんは滑らないの?」
「瞳さん、私が最後にプログラム滑ったの何年前だか知ってますよね?」
「わっ私みたいです!滑ってるナマエさん!」
「でもいのりちゃんが見たそうなんだもの」
「司……余計なこと喋ったな………」

 かつて氷上の住人だったのは間違っていない。けれど、今の仕事を始めて数年、私は最低限の健康を保証する程度の運動しかしておらず、それこそスケート靴なんてもう何年履いてないかさえ思い出せない。するといつの間にかリンクサイドに戻っていた司が満面の笑みで見慣れたスケート靴を差し出している。
 転居準備の中で確かに処分したはずのそれが、なぜ此処にいるのだろう。

「選手として滑るよりやりがいのある事を見つけたことと、スケートリンクを離れる事は別にイコールじゃないだろ?」

 ずい、と更に差し出されたスケート靴は、ご丁寧に(金欠のくせに)メンテナンス済みで綺麗に修繕が済んでいた。其処までして、全くつくづく司には敵わない。私はまるで宝石を受け取るかのように丁寧に靴を受け取る。

「氷上のナマエが、心から好きなんだ」

 慈しむように並べられた言葉は、まるで舞い上がってキラキラと輝く滑走路のようで、結局家の事といい今の状況といい、司にはいつだって敵わない。だから「それは此方の台詞だよ」なんて本心は、私の滑走の始まりと共にスケートリンクに淡く溶けて消えていった。

(ねぇ司くん、現役引退してから鍛えてないのよね?何であの子プログラムそのまま滑れるの?)
(ナマエの鍛えてないは一般の鍛えてないの範疇じゃないんで……うわジャンプも降りた……)



ソワレ、黄昏、恋焦がれ




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