「……貸し切りリンク、ですか?」
『迷惑でなければ貴女もどうかな』

 鴗鳥先生の突然の電話に驚きながらも向かったスケートリンク。まるでエキビションのような空気の中、見知った姿が静かに、けれど圧倒的な存在感を纏って滑走していた。

「苗字さん来てくださってありがとうございます」
「鴗鳥さん!此方こそお招きありがとうございます」
「良ければ一曲かけますか?」
「……通しはつい最近滑ったのでやめときます」

 司のせいで大勢の前で滑る羽目になったことを思い出して、思わずうえ、と変な声が漏れた。眉間に皺が寄った気がしたので慌てて伸ばす。年齢的にシワは作りたくないのが女の性である。

「……変わらず気持ちの良い滑りをしますね、彼は」
「現役と変わらないでしょう?」
「いや〜……これは現役以上じゃないですか?」

 曲が終わり、最後のポーズを解いた彼、夜鷹純に拍手を送ると、お前いたのかと言いたげな視線を寄越してくる。そういうところ変わんないな君。私は彼のボトルを差し出して、入れ違いに氷上へと滑り出した。
 そういえばそろそろいのりちゃんにジャンプ教えるって言ってたよなぁ……お手本になれるようにちょっと飛んでみようかな。シングルなんてそうそう飛ばないから上手く調整して氷上から飛ぶ。"回り過ぎないように"とセーブするのも中々難しいな、と思わず溜息が漏れる。

「ナマエ、何今の」
「将来の旦那がコーチやってて、それのお手本で飛べるかなって。ずっと回転数増やすことばっか考えてたから、久々にシングル飛ぶとちょっと難しいですね」
「……君さ、本当に引退するの」
「したじゃん、会見もしたじゃん」
「そんなに滑れるのに、何で辞めたの」
「それ言うならお互い様。私は滑るのは好きだけど、それより好きな事を見つけたから。いけない?」
「それは滑れない奴への冒涜じゃないのか」
「それは夜鷹さんもでしょ?」

 私と彼は似ている。けれど決定的に違う事がある。彼は氷上でしか生きられず、私は氷上を離れても平然と生きていけてしまう事だ。なんとも薄情な人間だなと、当時は思っていた。それでも、私の中に宿った気持ちは、氷上を去る事を一切躊躇わなかった。
 真逆であるが故に、何処か親近感を覚え、年離れた彼とは砕けた喋りをしている。当の本人も堅苦しいのは好かないそうで、うっかり漏れたタメ口を直そうとしたら止められた。もう何年も昔の事だ。鴗鳥さんは尊敬の対象なので礼儀正しく関わっている。決して差別しているわけではない、決して。
 ふと目を細めた彼が、コンパクトスピーカー片手にスマートフォンを操作する。流れ出した曲に私はざわめく気持ちが抑えられなかった。

「これ君の滑走曲でしょ。滑って」
「……上等、最初から流して」

 一度だけいのりちゃんにも見せたことのあるプログラム。しかし振り付けの細部を引退後に変えていた事は、あの場で滑るまでは司さえ知らなかっただろう。だって、私はもう氷上から飛び立ったのだから。氷上を愛してやまなかった女は、突如燃え上がった感情に何もかも奪われた。いや、差し出した、と言う方が正しいだろうか。元々趣味だったカメラが、まさか本職になってしまうとは、スケートを始めた頃の私なら思いもしなかっただろう。
 氷上を愛するこの曲は、一転してその愛を容易く手放す曲へと成り果てたのだ。翳した掌はアイスリンクの頂を求める手から、今にも燃え尽きそうなほど、情熱的なスケーティングを追いかけ縋るように伸ばした手へと変わった。滑走を終えた瞬間の表情は、かつての笑みではなく、渇望する切なさを孕んだ表情に。これが私から夜鷹純というスケーターへの、精一杯のアンサーだった。

「自分の為に生きようとは思わないの?」
「あら、自分の為に生きたいから私は氷上の在り方を変えたの。いけない?」
「……いや、君らしいね」

 ふ、と演者の時にしか見たことがない笑みと、予想外の肯定の言葉に思わず目を見開く。驚いたのは鴗鳥さんも同じ様で、彼もまた此方をみて口がぽかんと開いている。なんてらしくない。

「君の様な有能な選手を氷上から引き摺り下ろした奴が……少しだけ憎いよ」
「ふふ、お粗末さま。でも今の彼は別の子にゾッコンなの。まあ私もなんだけどね」

 ピクリ、と肩を揺らした夜鷹さんは開きかけた口を閉ざして、そっとリンクを去っていった。





 数日後、非常勤コーチとして瞳さんの元を訪れた私に、真っ先に駆けてきたのは珍しいことに司だった。顔色を赤や青に忙しなく変えながら、ことの顛末を勢いのままに私に話す。へー。

「簡潔に言うと、夜鷹さんに喧嘩売ったんだ?かぁっこいィ〜」
「絶対思ってないだろ!やってんなぁとか思ってる顔だろそれ!」
「うん、やってんね司」

 あと声のボリューム下げて。氷の上で舞う彼からは想像できないこの豊か過ぎる感情は、一体何処で培ったものなんだ。少しだけそんな司に疲れを感じつつ、先日夜鷹さんや鴗鳥さんと会った事は伏せておいた方が良さそうだと溜息をついた。
 肩を落とす司に呆れを覚えながらもそっとフレームに仕舞い込むようにシャッターを切る。顔を上げた本人は何故、とでもいいたそうに此方を見上げていた。

「2人分の人生の重み、イイじゃない。最高にカッコいいよ。んでもって、教え子の手前啖呵切ったなら、ちゃんと"完走"しなさいよ。地の果てまでフィギュア専属カメラマンはついて行くわよ〜?」
「ナマエ………」
「お、いのりちゃん来た来た。こんにちは〜今日も素敵な笑顔だねぇ」
「わわっ!こんにちは、ナマエさん今日も撮ってるんですねっ」
「私とみんなの夢が詰まってるからね」

 相棒のカメラを掲げてウインクをすると、何処から見ていたのか他の生徒たちも寄ってきて、私も撮って欲しいとせがんできた。
 彼らの儚く美しい一瞬を、余す事なく収めたい。そして多くの人にこの素晴らしさを伝えたい。そう思ったのはアイスダンスに転向して間もない頃の司に目を奪われた瞬間だった。命を燃やすように駆け抜けるその姿を、みんなに伝えたかった。私一人が滑って見てもらうんじゃなく、写真という媒体を通して、より多くの人に氷上の熱量を知って欲しい。それが今の私の、夢。

「いくらでも撮ってあげるよ〜一度と同じスケーティングは無いんだから、ね?」

 スケーティングを追いかけ並走しながらカメラを構えるのは至難の業だが、慣れてしまえば高回転ジャンプより余程容易い。強いていえば、選手に怪我をさせないよう細心の注意を払わねばならないことだろうか。

「ナマエ先生っ!今日のジャンプレッスンの時、私も撮って欲しいです……!」

 恥ずかしがり屋で何処か司に似た女の子は、私の服を柔く掴んで俯きがちに言葉を紡ぐ。そんな姿に私は口角が上がっていくのが分かった。

「勿論、それが私の夢だもの。喜んで撮るよ。二人のレッスン姿もね」
「俺もまた撮られるの……」
「主役はいのりちゃんですぅ〜」
「司先生と一緒!嬉しいです!!」

 ぴょこぴょこと跳ねる彼女の頭を撫でて、私もスケートリンクへと降り立つ。さぁ、今日も二度と来ない君達の刹那の一枚を切り取っていくから、自信を持って駆け抜けてね。私は誰よりも君達の努力と成長を知っているんだから。


逆説的アイロニー




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