ツェッド・オブライエンがすっかりライブラの一員として馴染んだ頃。少し厚手のコートを着たナマエは、ようやっと修繕も終わり手元に戻ったローラーシューズを履いて裏路地を駆けていた。見慣れた入り口を目前にスピードを緩め、大きく息をする。すー、はー。
チリン、と耳馴染み良いドアの音はナマエのお気に入りであった。アルバイトで通い出してから暫くは本来の裏口ではなくわざわざ表から入っていたほどだ。それを特別咎めずに出迎えてくれていたのは、はたしてマスターなのか、それとも父なのか。
私は今日、ここを辞める。自分なりのケジメをつけにきた。与えられてばかりだった私が、みんなに報いれるよう、そしてなによりザップの隣でちゃんとまっすぐ前を向けるように。
「マスター、こちらお渡ししておきますね」
「おや、辞めると口頭で聞いたから良いといったじゃないかい」
「形だけでもちゃんと区切りをつけたいんです」
「……やっていけそうかい?」
手渡したのはアルバイトの退職願。質問に微笑みで以って肯定すれば、そうかい、とマスターからも笑みが溢れた。これはマスターであり、私の最初の師匠でもあった彼しか知らない話である。
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ナマエ・ラインヘルツなんて人間は、本来存在しない。養子という名の、作られた家族だった。とはいえ兄は私を随分可愛がってくれていたから、救われた部分はある。それでも、だからこそ、唐突に襲う虚無感には争うことができなかった。牙狩りとして重責を担う兄に寄りかかるのは憚られ、かといってラインヘルツ家には居場所を感じられなかった。
私は宿り木が欲しかった。
ほんの少しだけでも、ラインヘルツ家から離れた場所で、ただのナマエとして生きてみたかった。だから一人暮らしをしたいと言ったが、今思えばそちらの方がよっぽど虚無感に苛まれていただろう。結果的にアルバイトという形で正解だったということだ。
牙狩りを辞めたマスターは、内情を知ってるから急なシフトチェンジに文句の一つも言わず、むしろ怪我はなかったか、何か食べるか、と気にかけてくれたし、何より牙狩りだったけれど私をラインヘルツ家の娘ではなく、ただのナマエとして見守ってくれていた。後から血縁だったと知ればなんてことないことでも、当時の私にとって心が救われることだったのには違いない。
ここを巣立って、やっていけるかと言われれば、即答はしかねる。けれど、もう何も知らない私でもなければ、守られてばかりの私でもないのだ。
「マスター……ううんお師匠様、私やれるとこまでやってみます。心が折れても、今はそばにラインヘルツじゃない私を見てくれる仲間が沢山いるから。」
だから、貴方という宿り木ばかりに甘えていた私は卒業します。まだまだ最前線で戦うのは許してもらえないけれど、いつかきっと、お師匠様のように最前線でこの世界を守ってみせるから。だから、だから。
「次に此処へ来る時は、娘として来てもいい?」
「……ああ勿論良いとも。他の子達も連れておいで」
契りがある以上、彼を父と呼んではいけない。けれども血の繋がりも愛情も、確かに此処に存在していた。今までも、これからも。
最後にドア越しに見たお師匠様は、変わらず静かに微笑んでいた。
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「用事は済んだかよ?」
「……ザップ、なんで此処に」
「知らんけど番頭のお遣いだ。オラ乗れ」
スティーブンさんは一体何処までお見通しなのだろう?心中を全て見透かされてるような気持ちになりながらも大人しくザップの後ろに体重をかける。落ちないように彼の腰に回した腕に少しだけ力を込めると、ご機嫌そうな笑いが聞こえたような気がした。
「……ねぇザップ」
「あンだよ」
「早くクズ治して嫁に貰ってよね」
「ハァ?」
「冗談だよ」
意味わかんねぇ、と未だ楽しそうに笑う彼は、果たして私の心中を理解してるんだかしてないんだか。……別にどっちでもいいか。だって彼からしたら私はとっくに「ナマエ・レンフロ」なのだろうから。
さらば宿り木、僕は往くよ