「ねぇレオ、私とうとう目が馬鹿になった?」
「そんな事はないんじゃない、かな……」
「スティーブンさんこれ何」
「いやぁ見たままさ。そのままの意味だよ」
いやそのままの意味だからこそ意味がわからんのだ。ギルベルトさんに勧められてレオとソニック、2人と1匹で優雅なティータイムをしていた最中。まるで買い出しを頼むような軽さでサインを求められたのは、婚姻届。既に私以外の欄は埋まっていて、これを何故ザップではなくスティーブンさんから渡されるのかが分からない。
「クラウスがなかなか手強くてな」
「普通私のサインが先ですもんね」
「でもここまで埋まってないとナマエはまた先延ばしにするだろ?」
「うぐ、痛い所を的確に突かないでください!」
しげしげとその紙っぺらを眺めていると、レオに肩を叩かれたので振り返った。呼んだは良いが何かを言うか言うまいか迷っているようで、忙しなく口元がまごついている。
「あ、えっとその、今すぐじゃなくて、良いと思うよ、サイン」
「レオ?」
「なんか上手く言えないけど、ナマエの中で全部整理がついてからで良いと思うんだ」
レオに限った話では無いが、私がバイトを辞めた事もちゃっかりライブラの外に借りていた家を引き払って完全な事務所住まいになっている事も、そのきっかけも理由も、おそらくみんなが知っている。
ずっと逃げてきたラインヘルツ家としての立場に向き合う為に、退路を絶った。ライブラは、私にとって安寧と不安、焦燥が常に隣り合わせの場所で、心から宿り木だと思うにはまだ時間を要する。
レオはそことなく察してくれたのだろう。今私は目まぐるしく変わった自身の体内に、それにより選んだ未来に、向き合うのが精一杯だということに。だから優しい彼は、ひとつずつやれば良いと言ってくれているのだ。尤も、ザップが居れば「ごちゃごちゃ考える暇あったらさっさと書け」とか俺様発言をつらつらとならべるのだろうけれど。
「レオは優しいね」
「うぇ?!いや、なんてゆーか、仲間が悩んでたらチカラになりたいじゃん?あ、いやこんな言葉でチカラになる訳ないんだけど「なってるよ」」
なってる、今まさにこの時。私は小柄な自身のバックパックに書類を仕舞い込んで、意識をショートケーキに向けた。真っ赤に熟れた苺は宝石の様に輝いている。私の笑みに安心したのか、満足そうにレオは再びティーカップに手を伸ばした。私も口内を潤そうとソーサーごとカップを持ち上げる。
が。
バタバタと喧しい音が向かってくる事に、カップから口を話してから、一体何事かとレオと目を見合わせる。なお音の主は言わずもがな。
「あーーー戻りやしたァ」
「うるさいザップ、収穫はあったんだろうな?」
「いンや全然。今旦那が情報を"賭けてる”所っすね。緊急だったからナマエは待機してろだとよ」
「あぁ、賭けってそういう……」
おそらくドン・アルルエルの元へ行ったのだろう。ギルベルトさんまで残すのは珍しい、と目線を向けると、手には懐中時計。なるほど、迎えの時間が決まってるから私を見てる様言付けたのか。いつも通りならK・Kもついているだろう。何も心配ないな、と1人納得して改めてソーサーを持ち上げる。
今日は外からの空気がHLにしては心地よい。決して良い空気とは言い難いが、流れ込む風の温もりが程良い。こんなゆったりした時間はいつぶりだろう。ふと過りかけた修行の日々に慌てて蓋をした。全身から汗が吹き出しそうな記憶は思い出さないに限る、うん。
「あ、ソニックも苺、食べる?」
熟れた苺を大切そうに両手で受け取り、隠す事なくキラキラを目を輝かせたソニックに癒されたのも束の間、窓際から人のものとは思えない奇声と、先程まで不在だったチェインの気配に顔を上げた。
「チェイン!おかえりなさい、昨日は大変だったでしょう?お疲れ様」
「ナマエありがと。あ、ギルベルトさん、これ」
「ああ有難う御座います、やはり雑貨はチェインさんにお任せするのが一番ですね」
高身長の2人に合わせて少し背伸びをすれば、視界に入ったのは花瓶。シンプルながら曲線美の感じられるデザインは流石チェインの目利きといった所だろうか。
「かわいい……これ私も気になるなぁ」
「今度連れてってあげるよ、後でオフの日メールして」
「ほんと?有難う!」
「おい待てクソ女、人の事足蹴にして登場たァいいご身分じゃねーかアァン?」
綺麗な足跡と、勢いのまま床に滑った頬が腫れて酷い有様だった。ありゃま、とは思ったが、どちらかに加勢して喧嘩を制止しても後々痛い目を見るので、大人しくソファで静観することにした。下世話な発言が聞こえた気がするけど、気のせいにした。紅茶フレーバーティーかな、これも苺の香りでおいしーねレオ。そーだねナマエ。
この見慣れた喧嘩の風景が失われかけるのは、それから数時間経ってからのことである。
カウントダウンが呼んでいる