己の視界を有り余った袖が通過して暫く、私の身体が宙に舞っていることに気づく。目の前の名前も知らない暗闇に弾かれた私は「あ、死んだ。」と、本来生物として備わっている筈の生存本能からは到底出て来ない、何とも気の抜けた感想が口をついた。
 ぶっちゃけてしまえば自身の人生の大半はそんな、産まれ落ちたかどうかも朧げで儚く、そして他人事のようであった。生まれてこのかた10年、くどい程繰り返した感想文は、やはり内容は変わらない。但し、これを最後に私は二度と同じ感想を吐く事はなくなる。





 私の持つ力を畏れ、しかしハリボテの名誉の為だけに必要としていた大人達。色んな苗字の掌で弄ばれ、それでも今日まで死なずにいられたのは、在るべき場所が別にあると知る為だったのだ。そう思わずにはいられなかった。

「やが。やが、まさみちだ。君を迎えに来た」

 やが。ひらがなだけが単音で脳内に浮かんだものを、かんじは?と拙く舌ったらずな喋りで問う。未だ厳重な封印が解かれていない、部屋唯一の出入口から現れた彼は、一瞬だけ驚いたように目を丸くする。しかし次に目を丸くしたのは私の方で、ああ、漢字か、と何事もなかったかのように手元のプラスチック(後から訊いたら携帯電話と云うらしい)から音が鳴らされ、まばゆい光と共に、そこからの人生で何度も書く事になる文字並びを知る。夜蛾と書くらしい。顔を上げ、初めて見た苗字と顔をリンクさせようとした瞬間。それが不必要な事だと、遠回しに伝える優しい眼差しが向けられた。そして再び浮かんだ、「夜蛾」という漢字。

「君を迎えに来た。君は今日から夜蛾になる」

 もう君の名は不変だとでも言うように、何処にそんな根拠があるのかも分からずに、それでも確かな確信を得て、私は二度目の産声を上げることを許された。





 正道と出会ってからの人生は、やる事こそ変らねど、私の生命に正しく命を吹き込んだ。

 かの畏れの対象は呪いと呼ばれ、それらに対抗すべく暗躍していた彼らは、私と同じように呪いを抱えて生きていた。呪われたその術を、彼らは「呪術」と呼ぶらしい。
 私の母方が一度は絶えたと思われていた術式の家系であり、また父方は術式こそ無いが比較的呪力を持つ所謂"視える"家系だった。それ故に私はこの力を持って生まれたらしい。らしい、と言うのは、それが全て後付けで義理の父となった夜蛾正道に教えられたことだったからだ。まるで机上の字面のみを浮かべて、けれどその具体的な姿は想像し難い、要は実感が一切も感じられなかった。

 一家相伝であると言われたその術式は、術式なんて言葉すら教えられず、けれどそれが当たり前のように使えるのだから、遺伝子天晴れ、なんて思った。何故か。如何様に使っているのか、と訊かれても答えられない程に、私はその術式について知らないからだ。ただ事実としてあるのは、自身を贄にして行使しているということ。
 産まれ落ちてから私が経験した年数と、本来の年数を重ねた筈の身体には、明らかなズレが存在した。その時点でもう10になる筈の歳を、この見てくれは5年しか月日を進めていないのだという。周囲に子ども−−ましてや歳の近い者などいないまま生きてきたから、知らなかった。知るわけがなかった。私にとっての当たり前は、周囲にとっての異常だったという事実。五つの子はまず名前をどう書くのかなんて訊かないし、そもそも文字すら書く事もままならないらしい。

 不気味がる大人達と同じ認識−−見目と中身が不一致だという認識が存在した筈の正道は、けれども私を異常だと、気味悪がることはしなかった。それどころか私がこれ以上本来の見目とズレていかぬよう、正しい力の使い方を教えてくれた。一方で、本来ならば使わなくて済む方が良いとも、正道は教えてくれた。そうして、私が無駄に命を贄にしないよう、出来る限りの生きる術を教えてくれた。





 世界は、呪いは、そして私を迎合した周囲の大人達は、私を異常だと腫れ物扱いしていた大人達を守る為に、その呪われた力を枯れるまで使う事が生まれた使命なのだと。そう言葉無く私に示したからだ。

 決してこの身が現実に追いつく事はない。
 けれど、少しでも正しくいられるのなら。
 産まれ落ちた事が間違いだった、と。
 そう思わずにいられるのなら。

 そんな曖昧なものさしに命を委ねた私は、そんな私なんかとは比べ物にならないものさしで生きる規格外な存在達と、此処、東京都立呪術高等専門学校通称『呪術高専』で数々の春を重ねていくことになる。



正しく生命を吹き込むしらべ


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