それは春の強い風が淡い色を全て奪っていく様に、あっという間の出来事だった。「悠仁くんが死んだ」という悟くんからの訃報を受けたのは、私がパンダと組み手をしていた時で、パンダにひと言断りを入れて急いで解剖室に駆け込んだ。少しだけ長くなったコンパスでも、校庭から酷く遠く感じた部屋の空気は、重い。ただでさえ走ってきて息が苦しいのに、場の空気も相まって窒息でもしてしまうんじゃないかと思ってぎゅう、と胸元のシャツを握った。
「硝子ちゃ、悠仁、くんっ、は、」
「ご覧の通りだよ」
「うそだ」
「嘘じゃない」
壁際でカタカタと震える伊地知くんとパイプ椅子をギィギィ鳴らしながら沈黙を守る悟くん。二人の視線は同じ寝台を見つめていて、私はその場でへたり込んで寝台の悠仁くんを見上げた。
呪術界には似合わない朗らかさと明るさを持っていた悠仁くん。根っこの部分がどこか憂太に似ていて、でも明確に違う彼に、私は密かに期待をしていた。悟くんの描いた呪術界への希望の星のひとつになるんじゃないかと。泣くことはしない。それでも、項垂れて床を見つめる程度には、心がへたってしまったようだ。
「スカートに皺がよるよ」
「悟くん………」
「僕の自慢の生徒だよ、大丈夫」
死んでしまったのに大丈夫も何もあるか。心臓が抉られた人間が蘇生するわけない事なんて、私だって知っている。そう言ってやろうとした矢先、奇跡は起きたのだ。
「うおっ?!俺すっぽんぽんじゃん!!」
「おかえり悠仁」
「五条先生!」
何事かと思った。先程まで生命活動を止めていた筈の悠仁くんは、確かに心臓が脈を打ち、その場に立っていた。……きっと内なる宿儺が何か申し出たのだろう。善意だけでこんな事する呪いの王ではない筈だ。いずれわかる事なのだが、悟くんは態と悠仁くん蘇生の場に居合わせるよう訃報を私に送ったのだった。
この後の重責を任せる為に。
「悠仁はこのまま暫く死亡扱いにするから、面倒は宜しくね」
「………はぁ?」
急いで帰宅した私は、悟くんのDVDコレクションから何枚か抜き取って鞄に詰め込んだ。他にも自分の必要最低限のものを選び取って、悩んだ末に結婚指輪は置いていくことにした。代わりにすっかり傷だらけの婚約指輪をネックレスチェーンに通す。まだ幼児だった頃に渡されたこれは、指のサイズがころころ変わるせいで指に嵌めるよりも首から下げることの方が随分多かった。
この指輪にはおまじないがかけてある。悟くんの呪術というおまじないが。まだ私が存分に戦闘出来なかった頃に、守護の術が発動する、確かそんなものだった。
両面宿儺の企みが読めない今、これくらいの自己防衛はしておいても良いだろう。今頃隠れ地下室に向かったであろう二人を思い浮かべて、とりあえず夕食の材料を持って行こうと考えることはそこでやめた。空腹では出来ることも出来なくなるのは平安も現代も相違ないのだ。
「悠仁と!」
「ナマエの?」
「クッキング教室〜!!」
「い、いえ〜い?」
悠仁くん、見た目は君に近いけど、中身は君から見た五条先生や家入さんと同じなんだよ。このテンションはちょっとキツいよ。精神的にも、年齢的にも。止める気なんてもの持ち合わせていない悟くんは寧ろ囃し立てて面白がっている。まさかこんな形でお料理教室が実現してしまうと、世の中とことん思う様にいかない。
「悠仁くん、今日はエネルギー補給の為にカツ丼の材料と使えそうなものをちらほらご用意しました」
「ナマエさんこんなに有能なのに、五条先生はなんで28歳児なの?」
「悠仁くんやめて、それは悟くんと見せかけて私に刺さる」
件の28歳児は夕食前だと言うのに映画を観ながらポップコーンをもっきゅもっきゅと口いっぱいに詰め込んでいる。それでも夕食はぺろりと平らげてしまうだろう。
私は28歳児の存在を思考から消して、悠仁くんに手順を尋ねた。ニコニコと楽しそうに自身の手を動かしながら指示をくれる彼にホッとする。この様子ならこの外の光が一切入らない部屋でも上手く生活していけるだろう。それでも心配だった悟くんは、当分結界の張り直ししか任務が入ってない私にこの部屋のことも悠仁くんのことも明かし、悟くんよりも時間を割ける私に彼を託したのだろう。実技的なことはいずれ引き合わせる七海くんに、そしてメンタルケアは私に。
悟くんはなんでも出来てしまうが故に、「出来ない」という感覚が分からないと、学生時代にぽつりと零していた。彼の苦手なことなんてせいぜいアルコール摂取ぐらいのものだ。逆に最強だな、アルコール。
話が逸れた。とにかく、彼は分からないからこそ、分からないなりに出来ることを考えようと努めるだけの地頭と努力する気持ちがある。人に頼れる(頼り方には問題大アリなのだが)彼は決して頼る相手を見誤らない。だから、きっと七海くんも面倒くさがりながらも結局断れないのだろうなぁ、と脳裏に浮かんだ彼に少しだけ同情した。
そして、上層部との間である意味一番辛い思いをしたであろう伊地知くんもまた、良い様に使われてしまうのだろう。概ね悠仁くん専属補助監督といったところだろうか。
とはいえ、補助監督だって万年人不足だ。変わらず他の術師の面倒も彼持ちだから、多忙に拍車がかかるだけである。優しい彼は学生の時点で悟くんにバッサリと補助監督になれと言われた貴重な一人だ。言葉だけ見たら戦力外通告と捉えてもおかしくないのに。それでも折れずに期待に応えようと、精一杯目まぐるしい日々に飲まれていく彼は立派な補助監督という立場の呪術界を支える柱であった。近いうち彼のメンタルケアも必要そうだ。
……あれ、もしかして悟くん、ここまで見越して私を呼んだ?ご機嫌な様子でカツ丼を頬張る彼は、今は何も答えちゃくれなかった。