『もし私を選んでくれるのなら、どうかこの手を取ってはくれないか?』

 ぼんやりと目の前に佇む姿と視界の低さに、ああ夢なんだなと、不躾にも昂った気持ちは急降下した。高専を、呪術界を離反して、それでも同級達への挨拶は怠らなかったのがなんとも彼らしいなと思った。
 その当時はまだ殆どの人を苗字呼びしていて、悟くんは婚約はおろか付き合ってすらいなかった。毎日懲りずに送ってきたラブメールの数々は、今では彼に取っての黒歴史らしい。

 そんな、まだ学生としての初々しさを残していた頃−実際はそう思い込もうと勤めていただけなのだけれど−私は離反したと連絡を受けた直後に任務帰りの街中で遭遇した。敵意は感じられなかったが、連れ立っていた呪骸を離すことはしなかった。硝子ちゃんはすぐに悟くんに連絡したと言ってたな。私はそれをしなかった。後で悟くんと正道にすぐれんらしなかったことを散々怒られて、何故かそれにかこつけて婚約を取り付けられてしまったのだから、当時は高専敷地全域に響き渡りそうな声を上げた。誰だってそうなると思う。

 ふと意識を目の前に戻す。夢だと自覚があることを明晰夢とか言ったっけ。何でもいいけど。私の脳内が作り出してる以上知ってる事しか返ってこないのは分かっていた。それでも内緒話を私は繰り返すのだ。

『それは、私が可哀想だから?』
『ナマエ、君は強い。可哀想なんて思ってないよ』
『じゃあこれからの夏油くんにとって有用?』
『それも違うかな』
『いつでも殺してくれる存在が欲しいんでしょ』

 あの日と同じ問答、そして沈黙。あの日彼は、五条悟に出来て夜蛾ナマエには出来ることを知っていた。恐れなく言えば、私個人の判断なら殺せた。それこそ多少周囲に被害が出てでも、将来的な被害を鑑みれば安いものだ。ハリボテの心しか持ってない私には、離反者・夏油傑を殺すことは容易であった。
 でもそれを、彼は許さなかった。
 いつの間にか目の前に佇んでいた夏油くんは、私の小さな両手を優しく包み込んで、静かに首を振った。そして言う。「君の手は人を殺める為ではなく、救う為に在るべきだ」と。

「貴方も……そうだったんじゃないの?」

 視界は夢から醒めるのか涙の膜の所為なのか、歪んでいた。現実と夢の境界線は、なんてこんなにも曖昧なのだろう。





 伝った涙を拭う事もせずぼんやりと身体を起こして時計を確認した。変な時間に起きてしまったようだ。そもそも寝る前まで特訓部屋に居たのだから、おそらくここまで悟くんが運んでくれたのだろう。忙しい中時間を割いて悠仁くんの特訓を見ているというのに、自分に手間をかけさせてしまって申し訳ない気持ちになる。

 悟くんのやる事はいつも前説明無しに実行されるから、後から理解するのがすこぶる大変だ。流石に10年近い関係なので慣れてしまったけれど。
 婚約云々は秘密裏に正道と話はしていたらしい。私の力を悪用(と言う名の上層部の乱用)を避ける為の後ろ盾として、五条家の婚約者と言う、無闇矢鱈に危険な任務に放り込めないようにしたとか。確かにいくら上層部でも、五条家の婚約者を死なせたとなっては切腹ものだろう。
 よく私が婚約者として通ったな、とは思ったが、当時既に実質の実権は悟くんが持っていたことと、私が稀有な術式と悟くんに勝るとも劣らない呪力を持っていたこと、そして義理の関係とはいえ、呪骸研究の第一人者でもある夜蛾正道の娘ともなれば、コネクションとしても完璧だったらしい。まあこれも全部悟くんが話していた事なので、これらのバックボーンがあったから納得してもらえたというよりも、納得『させた』という表現が適切だろう。

 あれこれ言ったが、五条家は最低限の作法さえ身に付いていれば、そこまで居心地の悪い場所ではなかった。比較対象が物心つく頃の私の……うん、比較する事すら失礼な気がしてきた、やめよう。とにかく悟くんのご両親は大層私のことも可愛がってくれた。娘が欲しかったんだよ、と涙ぐみながら話す前当主には愛想笑いだけ向けた。(どうせ側女で女児を産んだ方もいたでしょうに……)

「あれ、ナマエ起きちゃったの?」

 声のする方を向くと、夜間の任務を終えた悟くんがお風呂上がり特有の湯気を纏ってリビングへと繋がるドアを閉めていた。ホラー見過ぎて怖い夢でも見た?泣いちゃってかわいーんだから。そんな茶化す様な言葉を炭酸水のペットボトル片手にぺらぺらと並べていく。
 ふしゅ、というなんとも腑抜けた音のしたペットボトルは常温だったのだろう。結露もしてなければ強い炭酸の音もしなかった。二、三口嚥下してから、私の不和に気づいた彼はそっとベッドの縁に座った。私ではここまでスプリングは軋んでくれない。

「怖い夢は、見てないよ」
「誰の夢見たの?」

 きっと彼にはお見通しだろう。だからこそ敢えて問うたのだ。誰の夢か、と。ふと、あの日投げられた言葉が再びリフレインする。もう何年も前の出来事で、それを言った主はもうこの世に居ないのに。何度でも、何度でも。私を試すように夢の中に現れる。

「夏油くんは、あの時私に殺してでも止めて欲しかったんだ。天才五条悟に出来なくて、私に出来る唯一のことだったから」

 素直に言葉を受け止めて仕舞えばよかったのだ。なのに、中途半端なハリボテの心は言葉の真意を探ってしまった。それが、彼には躊躇うように見えたのだろう、私を包み込んだ手は震えていた。なんて事を頼んでしまったのだろうと、きっと彼は後悔したに違いない。決してそんなことなかったのに。

「……俺さー、あの日のこと今でもちょっと怒ってるよ」
「すぐ悟くんに連絡しなかったから?」
「ちげーよバカ」

 上半身だけ起き上がっていた私は悟くんにされるがままにベッドへと沈んだ。スプリングは悲鳴を上げたが数回の上下の末、大人しくなった。サングラス越しの彼の目もまた、スプリングと同じようにゆらゆらと揺れている。最近気付いたのだけれど、こんな綺麗に揺れる瞳を独り占めしてるなんて、前世でどれだけ徳を積んだのだろう。或いは来世で地獄を味わうのかな。そんなことを考えてしまう程に、私の人生は始まりこそ最低だったが、報われて救われた。
 そっと彼の驚く程白い、絹のような頬に指を滑らせた。瞳は未だ怒りを含んで揺れている。ねぇ、言わなきゃ分かんないよ。

「ナマエは手を掴まれただけって学長に報告してたけど、俺ちゃんと残滓で分かってたかんな?」
「な、んのこと、か、な」

 視線を泳がせてもきっと彼は私を逃す気なんてない。あの日、まるで最期の願いを叶えにきた、とでも言い出しそうだった夏油くんは、去り際、なんと私の唇を奪っていったのだ。それが何を意味するのかは、知ってはいけない気がしたし、知る必要のないことだと本能的に理解していた。だから本当の最期の時も、彼にわざわざ問うようなことはしなかった。彼の後悔はあの一瞬で報われたのだ。それでいいじゃないか。
 まあ、見上げた先の彼はもう10年近く昔のことなのにまるで昨日の事のように張り合う気でいるらしい。ふぅ、と息を吐いて、やれやれと思いながら大きな子どもの我儘に振り回されてあげるのだ。何故ならそれが、彼なりの慰め方だと知っているから。別にもう泣かないけどね。



救いだった筈の貴方の掌


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