「まーさか天元様直々に教えちゃうとはねー」
「ナマエ自身、何故教えてくださったかの理由も特別聞いていないそうだ」
「……腹の中が見えねーな」
だから一人で行かせたくなかったのに。その言葉に夜蛾学長は眉を顰め、家入は顔色ひとつ変えずにコーヒーを啜った。保健室に差していた日はもうすっかり冷え込んでしまった。
過去の出来事に言っても仕方ないし、古書の存在が分かった以上、今でこそ大人しく詮索しない彼女だが、何か−−たとえば悠仁の時のようなことが再びあれば、きっとどんな手を使ってでも知ろうとしたと容易に想像がつく。
安易に術式を使わないように今も尚努めている彼女だったが、今回の件は流石に何かせずにはいられなかったのだろう。
なんせ彼女は僕たちの知らぬ間に忌庫の封印物が持ち去られた現場に居合わせてしまい、何も出来なかったことを悔いているからだ。誰がその場に居ても同じ判断をしただろうし、彼女の判断は正しい。それでも奪われてしまった事の重大さに、これから僕たちのみならず、生徒達までもが危険に晒される可能性を捨てきれない彼女は、きっといつまでも後悔を捨てきれないのだ。
ポケットから取り出した小さな古書の控えめな家紋と術式を、未だ捨てられない高専みたいだ。ととと、と寄ってきた硝子はへぇ、と漏らしてからその家紋をまじまじと見つめる。
「姫彼岸花、ねぇ……どーせ家長のオッサンが決めたんだろうけど、悪趣味だね」
「ほんとソレな。当時居なくて良かったよ、多分消してた」
「お前なら実現しそうで怖いな」
姫彼岸花。洋名のネリネやダイヤモンドリリーの方がおそらく名の通りが良い。花言葉は幾つかあるが、ナマエらしいのはやはり「忍耐」と「箱入り娘」だろう。尤も、箱入り娘時代の彼女は自分が孤独に耐え忍んでいたことにすら無自覚だったのだから、この世界の闇は深い。
着物の刺繍も本当ならば五条家のものをいれたかった。しかし、いつか来たる戦いの日を思えば、五条家の家紋よりも彼女自身の家紋の方が良いだろうと、苦渋の選択で決めた。実際交流会の後処理中に戻った彼女の手には、天元様から渡されたという彼女の家紋の入った呪符が三枚。どのような使い道なのか、いつ必要なのかは聞かされなかったそうだ。ただ、肌身離さず持っているように、と。
「アタシはあの子が今まで使ってた術式がずっと反転術式だったことに驚いたよ。五条と学長は知ってたんですか?」
「まあ、五条は分からんが仮にも保護者だからな……最低限のことだけは」
「俺は六眼があるから最初から分かってたけど、クソみたいな理由は知らなかったし知りたくなかった」
彼女の術式が代々女だけが継げるのは、男と異なり、生まれ以って「生み出す事」を遺伝子が知っているからだ。
では何を生み出すのか。
"俺達"がかつて失敗した一人の少女の護衛任務。その彼女達に何かあった時、己の体内を作り変えて身代わりとなるのだ。つまり、天元様がこの世に存在し続ける為に生まれてしまった家系なのである。始めこそ強い呪力と権力を持っていた一族だったが、進んで術式を使いたがる人間がいるはずもなく、年々廃れていった。そうして天元様とのコネクションを失い、地位も失った彼らは、行き場の無い感情を術式を継ぐ者に押し付ける事でしか地位どころか明日を迎えられるかすら怪しかったらしい。古書の内容なので、鵜呑みにはしないが、概ね事実が書かれていると思っていいだろう。
そして彼女・ナマエはすっかり過去の栄光の理由すら忘れ去ってしまった愚かな大人達に良いように使われてきたのだ。今回の件で反転術式を使えることが周知のこととなった以上、任務に駆り出される機会も増えるだろう。幸い一級推薦に留めた為、悠仁達の付き添いという形が多くなるとは思うが、それでも二級辺りに留めておくべきだったかと思ってしまう。
「二級なんて上がそれを許さないだろ。一級が良い折り合いだったんじゃない?」
「……俺になんかあったら硝子よろしく」
「宜しくしないで生きて帰れ。旦那だろ」
いつもの戯言の投げ合いをしていると、ふと何かを思い出したようにマグカップから口を離した。片手でスマホを操作して記憶の正誤性を確認したのか、なぁ五条、とスマホ画面からゆったりと視線をこちらに見遣る。
「姫彼岸花ってな、また会う日を楽しみにっていう花言葉もあるんだぞ」
いよいよ死ねないな、とケラケラと笑う硝子に思わず逆向きに座っていた椅子の背もたれに項垂れた。体重に悲鳴を上げているが、今はそんな事知らん。
硝子は僕の事を浮かべただろうが、僕はどうしても彼女と花言葉を重ねた時に、別の姿が浮かんでしまった。別に不倫を疑っているわけではない。
あの日を境に硝子は煙草をやめた。
あの日を境に俺は僕に変わった。
何ひとつ変わらないのは、ナマエただ一人だった。言動も行動も、見た目も思想も何もかも。それに救われた人間がどれだけ居ただろう。そんな彼女を誰が救えるというのだろう。そもそも彼女は、救いを求めているのだろうか。
解呪を終えてナマエの中の時間は少しずつ動き出した筈なのに、ことは嫌な方にばかり動いていくような気がして不安ばかりが募る。なんて僕らしくない。目隠しを深くしたタイミングで頭をわしゃわしゃと撫でられる。
「夜蛾学長、男のそれは求めてないデース」
「お前は一人で抱えすぎだ馬鹿。確かにお前がやるのが一番早い事でも、分担したり得手不得手を見る事も大事だろう。何よりウチの子はそんなヤワじゃないぞ」
「お義父サマ厳しーやだー」
「ほら、お前はこれから会議だろ、行くぞ」
ゴン、と懐かしい痛みが脳を揺らした。幾つになっても何処か生徒だった僕らを見てくれる学長の優しさに甘えそうになるのを飲み込んで、硝子にじゃあな、と手を振った。
「近いうち家呼べよな。私もナマエの手料理が恋しいんだ」
僕の嫁さんがはしゃぐ姿が目に浮かんだ。それだけで疲れが吹っ飛ぶのだから、硝子の医療は有能だ。肯定の代わりにサンキュ、とだけ返して足早に会議室へと向かった。