「あれ、私、野球のルール知らない、かも」
今にも泣きそうな顔で僕を見上げるナマエに思わずエグめのキスをしかけて、仮にも職場で生徒の前だとグッと抑えた。僕偉い、偉いぞ。そんな僕の心中なぞ見透かしたように当人以外の視線は冷ややかだったが、この際脳内の失態がバレようと、実行に移さなかっただけ良しとしよう。何よりナマエにバレてないからオッケー。
さて改めて冷静にナマエを見下ろすと、みんなの当たり前が自分に当てはまらないことに酷くしょげているようだった。割り切りの良い彼女なので、珍しい姿にどう言葉をかけるか、流石の僕も躊躇った。こういう時の励ましとか苦手なんだよなぁ。
「ナマエさーんベンチ一緒に座りましょ!解説するんで!」
「あっずるい虎杖アタシがナマエさんに解説するの!説明下手は引っ込んでな!!」
「みんなで説明すりゃいいだろーが」
「おかかぁ……」
こういう時に悠仁のような行動力の塊には救われる。既に始まった野球の解説に「なんで1から3まで塁はあるのに4塁じゃなくてホームベースなの?!消していいかな?!」と謎のキレ方をしているが、あの様子なら大丈夫だろう。仮にも審判なので余所見は出来ないが、少なくとも声色は元気である事を教えてくれる。
出会った頃のナマエは、見るもの全てが知らない世界だと言わんばかりの様子で、いつだって目を輝かせていた。僕の苦いフラペチーノをわざと混ぜずにエスプレッソの部分だけを飲ませた時の顔といったら、もうたまらないもので、以来、ことある毎にその顔を再び見るべく奔走したものである。
少しずつ喜怒哀楽が見えてくると、僕の加虐心は更に煽られた。あとから「それは加虐心に似た恋愛感情だ」と傑に指摘され、僕の方が苦いフラペチーノを飲んだ時の顔になるのだが。
そんな、学生の頃は何を見ても楽しそうにしていた彼女だったが、世界を見る目が悲しみ混じりの眼差しになったのはいつからだったのだろう。
1人世間から隔離された世界から高専という対比的にだが広い世界に飛び出して、彼女はたくさんの知見を得た。それと同時に、たくさんの人を通して己の異質さを自覚していくのは、どれだけ辛かっただろうか。後から補うことは出来ても、ハナからあったことには出来ないのだ。
僕は彼女と正反対のようで似ていた。
術式ゆえに腫れ物扱いされる存在。しかし僕は、欲しいものは手に入れるし五条家の秘蔵っ子だの何だの持て囃されて、更にはかつて唯一失敗した任務で力を昇華させ、いよいよ持っていないものなんてないと思い込んでいた。違う。持っているからこそ、持てないものがあったのだ。
言葉にするのは難しい。けれど、確実なのは、それをナマエは持っているし知っていて、僕はその苦しみに共感する事は出来ず、寄り添うには持ちすぎる存在だった。
それでも彼女は僕を選んだ。
多少の惰性や打算はあったかもしれないが、少なくとも僕の知るナマエという女はそんな器用なことは出来ないし、出来たとしてもしない。そういう奴なのだ。
『君の隣は未知に溢れてて全然飽きないの』
僕の軽い婚約しない?という言葉はアッサリと受け入れられて、むしろ学長を口説く方に労を費やした。
ようやっと君を苗字で縛り付けた今でも、正直何故選んでもらえたのか、何故ナマエが僕を愛してくれるのかが分からなかった。しかしそれを問うた所で、ハリボテの心で補う彼女は答えられない。だから、彼女の向けてくれる喜怒哀楽ひとつひとつから宝探しのように煌めく愛のかけらを見つけては、慈しむのである。
そしてそれをよく知る君は、今日も僕に隠す事なく悲しみも、喜びも、全部全部伝えてくれるのだ。
そんな風に全て鵜呑みにしていたから、彼女の嘘に気づけなかった。そうして僕は、彼女に対して生涯最初できっと最後になる見落としを犯すのである。
ボールがバッドの芯を捉えて青空へと飛んでゆく。フルスイングでやり切った悠仁はぐるりと塁を進み、最後にホームベースをしっかりと踏み込んだ。そのままの勢いでベンチへと駆けて行き、東京校の面々とハイタッチをしていき、最後には拍手と称賛の言葉を投げかけるナマエに盛大に抱きついた。周囲の生徒は思い切り僕の表情を見てから、再び悠仁たちを見やる。
見守られる中心では、少し困り顔だけど、生徒に慕われて嬉しくないわけがなく、ナマエも満更でもなさそうな顔で悠仁の背中をポンポンとあやすように叩いていた。横からずるいと騒ぎ出した野薔薇を筆頭に、両校の生徒たちは順繰りにナマエに抱きついていて、生徒の邪魔をするのも野暮だろうと、野球らしい締めの挨拶はせず軽く流す事にした。
「アレはいいんですか」
「一日の最後に抱きしめるのは絶対僕だから、あれぐらい全然いいよ」
「結構気持ち悪いですよ」
バッサリ言い切った恵は近いうち組み手をして欲しいとだけ言って、悠仁たちの元へ駆けて行った。脳裏には今日の試合のバントが過ぎった。以前からナマエが指摘していた「割り切りが良すぎて勿体無い」の良い例だろう。さてなんて言葉で伝えてやろうか。
そんな考え事をしていると、悟くん、といつもより張り気味の声で僕の名を呼ぶ彼女と視線がかち合う。なあに、と返すとふにゃりとした笑みをこちらに向けた。僕だけに向けてくれる、真綿のような優しい笑みだ。
「東京校勝利、おめでとう」
まだまだ自分も青いな、なんてアラサーにもなっておいて思ってしまう。校舎に向けていた足取りはあっという間に彼女の元まで辿り着き、ひょいと抱き上げてから、青空を背景にしてその笑顔を目に焼き付けた。
やっぱり無理だ。
流石に生徒相手に抱きつくくらいじゃもう妬かないけれど、いつだって最優先されるのは僕じゃなきゃね。