「あれ、夜蛾学長までいらっしゃいませ?」
「邪魔してるぞ。パンダを迎えに来ただけだ。コーヒーだけいただいたら出る」
「ついでにナマエも連れてこーぜ、やっぱコイツ駄目だわ、色々」
「ちょっと待てパンダ話をしようか」
ドライヤーを済ませてリビングに戻ると、予想外の人物が増えていて思わずゲッ、と声に出てしまった。焦った拍子にズレたサングラスを直して、今朝の会話を茶化すパンダを何とか黙らせる。学長は何を今更、とでも言いたげな顔でこちらを見ていた。諦めないで。仮にも元教え子でショ。
僕も生徒と一緒に朝食にしようと思い椅子を引いたが、その前に未だ眠っているらしい彼女の様子を確認しようと寝室のドアに手をかけた。隙間から覗き見た景色に違和感を覚えて早足気味にベッドに近寄る。寝ている筈の彼女はベッドにぺたんと座り込んでいて、虚ろな瞳で外を眺めていた。
「ナマエ、ただいま」
「………ごじょおくん?」
「お前ももう五条だろ、何?昔の夢でも見た?」
ケラケラと笑いながら視線を合わせるように床に膝をついてやると、勢いよく抱きつかれる。次第に大きくなるしゃくり上げる泣き声に、ことを察した恵が静かに半開きだったドアを閉めてくれた。
(呪力が乱れる程嫌な夢を見たのか)
あやすように頭と背中をそれぞれさすってやる。どうしたのかなんて、野暮なことは聞かない。ナマエは時折、楽しい思いをした夜にはこうして悪夢をみることがある。まるで現実に引き戻さんとするかのように、容赦なく過去の恐怖や悲しみの記憶が蘇るらしい。パンダが気を利かせて泊まってくれたのも、きっとこうなる気がしていたからだろう。幸い朝帰りが出来たので僕がいるけれど。
「ごじょ、くんっ、ごめん、ねぇ……」
「ナマエ?」
「ひとりでっ、つらかったよねぇっ……!」
一字一句同じ言葉に、ナマエがどんな夢を見て泣いているのかを悟った。そしてその当時、自身が何と返したのかもよく覚えている。まだ夢うつつの中で苦しむ彼女にとって、何の慰めにもならないと分かっていても、この言葉を選ばずにはいられなかった。
「俺は任務を遂行しただけさ。それより血溜まりの中でお前を見つけた事の方が怖かったよ」
生きててくれてありがとう。生き延びてくれて、僕を1人にしないでくれて。たった一人の親友が残した呪いは、僕だけでなく彼女にとって根深いものなのだと、改めて痛感する。
百鬼夜行が行われたあの日。人手が足りないという理由で京都校側に駆り出されたナマエは、多くの呪霊を相手に戦い抜いたが、術式を禁じられていたことで酷く消耗していた。結局特級相手にやむなく術式を使い、そのまま百鬼夜行は終焉を迎えた。あまりの容態に「京都校では見切れない」と伝達を受けて迎えにトんだ僕が、血相を変えて硝子の元へ駆け込んだのは、後にも先にもこれが最後だろう。少しずつ成長していた身体が再び縮んだと知った時には、流石の僕も涙ぐまずにはいられなかった。硝子も無言で処置をしながらも何処か割り切れないと、感情を露わにしていた。
「ナマエ、悠仁達が待ってるよ。早く戻っておいで」
ふるりと震えてからそっと持ち上げられた瞼は、まだ少し眠たげで、泣いた後特有の赤みをはらんでいた。おはようナマエ、と改めて名を呼んでやれば、ようやっと覚醒したのか、ふにゃりとした笑みで僕を見つめた。
「おはよう、それとおかえりなさい、悟くん」
良いお出汁の香りがするね、と恥ずかしそうに喋る彼女に朝は悠仁が用意してくれたことを伝えると、昨日食べた鍋の汁も悠仁ブレンドで美味しかったのだと身振り手振りを加えて話し始める。これは目に入れても痛くないやつだな。チチチ、と火をつける音が聞こえてきた。気を利かせた悠仁か恵が味噌汁を温め直してくれているのだろう。もう少しだけ朝の彼女を独り占めしたら、一緒に温かいリビングに行こう。君はやっぱり陽だまりの中が似合うから。
「ナマエさんも泣くんだな」
「アンタ仮にもレディを何だと思ってんのよ」
「あの人夢見悪い日は決まってああだぞ」
「アレだけは僕も対処療法しか出来ないんだよねぇ」
今日も授業兼任務で外回りだった。相変わらず一年3人は仲良く後部座席に並んでいるが、僕の代なら無理だな。というか嫌だな。なんて思い至る。そんな仲良しトリオは毎度話題が尽きないワケだが、今日の帰りのトークテーマはナマエのことだった。恵は付き合いが長いから何度か彼女の泣く場面に遭遇しているから慣れたものだが、悠仁は意外に感じたらしい。
「ナマエさんっていつも微笑みを絶やさないっつーか……無理してでも笑ってる人って感じ」
「悠仁分かってるね、それ本人に言ってやって」
地下室での特訓期間、長い時間関わっていたおかげか、悠仁はナマエの本質を比較的理解している方だと思う。孤独を経験して、それでも前へ進み続けようとする強さを持つ悠仁が彼女のことを知ることは、良い作用になると思う。悠仁にとっても、ナマエにとっても。その成果を今垣間見た気がした。そういえば、と悠仁が何かを思い出したのかフロントミラー越しに目を合わせて尋ねてきた。
「昨日のナマエさんって一人で任務だったんスね。ナマエさんにあんなハッキリ残滓が付いてるの俺初めて見たかも」
「……残滓?ナマエに?」
「あ、なんか新しいネックウォーマー?について……ました」
新しいネックウォーマーなんて僕は知らない。きっと自室の中にあるのだろう。段々と口が重くなる悠仁は、僕の隠しきれない感情を察知しているのだろう。
昨日の彼女は結界の張り直し任務だけで、呪霊も道中で雑魚を祓っただけだときいている。それで今の話が出るなんて有り得ない。残滓が、ましてやそんなハッキリと残るワケがない。僕は嫌な予感がして、補助監督に道中の自宅に寄って欲しいと伝える。噛み合わない事実と、ナマエが悪夢を昨夜見たことがとても偶然とは思えなかった。よりにもよって歌姫と共に敵対する呪霊達と繋がっている内通者を捜索している最中の事だ。可能性が浮上した以上は確認しなければならない。ナマエが裏切り者なのか否か。彼女がそうではないと信じるからこそ、僕は確認しなければならない。残滓がもし残っているならば、交流会で対敵した奴らの者か否かも。
速度制限ギリギリでマンションの前に滑り込んだセダンから降りると、後部座席からも降車する影が映る。
「何?お前ら部屋までついてくる気?」
何か問題でも?と言いたげに僕を見る視線に、こいつらのナマエ好きも大概だなと少しウンザリした。確認したらすぐ高専戻るからな、と言い聞かせて、僕は部屋のロックを開けた。
一瞬の事だった。
一気に吹き抜ける風がベランダが開いていることを知らせて、僕は乱暴に靴を脱ぎ捨てて部屋の中へと駆け込んでいく。目を見開いて隅々まで見る。この部屋で一体何が起こったのかはわからない。ひとつだけ確かだったのは、ナマエが姿を消したという絶望。
それは、のちに「渋谷事変」と呼称される呪霊による大規模テロが起こる、数日前の出来事だった。