渋谷での騒動は大きな爪痕を残した。百鬼夜行に次ぐ被害規模、しかしそれでも最悪は免れたと、事情を知る者達は言うだろう。呪術師らの中では、命を落とした者もいれば、大怪我で辛うじて命を繋いだ者もいる。その中でも東京校の学生達が未だ覚醒を待つ者は、今日も揺籠の中の赤子のように深い深い眠りについていた。主治医である家入硝子はカーテンを開けて管に繋がれた彼女の名前を今日も呼ぶ。

「おはようナマエ、アンタに救われた命は今日も生きてるぞ。お前の旦那も喧しいくらいだ」

 返事は無い。それでもいつか笑顔が返ってくることを願って、今日も変わらず話しかけ続ける。窓からは、春というには程遠いが、優しい温もりを持つ陽射しが部屋を包んでいた。

 ナマエが獄門疆に己を封印した後、ナマエ救出を巡って、それは大きな騒動となった。というのも、ナマエと共にテロの首謀者であった羂索も封印された事で、下手に開けずそのままに、という意見が五条以外の御三家や上層部から挙がったのである。そんな周囲の言葉を聞く五条ではないのだが、そんな事とは知らず、生徒総動員で救出しようと働きかけていたらしい。策はいくらか講じたものの、結局開け方が見つからないまま時間だけが流れていった。

 そして同年12月24日。夏油傑の命日に、前触れなく二人は吐き出された。まるで夏油傑を今度こそキチンと弔ってほしいと、ナマエが訴えているかのように。頭を抱きすくめられた夏油の姿に一同は警戒したが、五条の六眼により彼女の術式によって夏油の脳は頭蓋骨を残して綺麗に"消されて"いることが判明した。額に残る縫い目からも、おそらく脳がかの羂索の本体だったのだろうと結論づけられた。
 一方のナマエはといえば、渋谷事変当時の怪我が残っている以外は特別大きな怪我はなく、ただただ深い眠りについていた。時間が経った今はその傷も全て跡形も無く消え去っている。本来なら入院扱いの者は別室にあてがわれるのだが、硝子たっての希望と五条の後押しで、ナマエのことは常に硝子が経過観察出来るように保健室預かりとなった。……と、いうのは結局建前で、もう間も無くその理由である奴らが順繰りに顔を出すだろう。

「失礼しまっす!家入さん、おはようございます!」
「朝から元気だな、頭に響く」

 ハンドサインだけで入室許可を出すと、後ろに続いていた奴らも順々に挨拶も程々にナマエのベッドを囲んでゆく。保健室なら家入が見守る中生徒たちは面談が容易だが、入院部屋となるとそうもいかない。下手に会わせないよりも、こうして顔を見せてやれる方が彼らのメンタルケアになるだろうと話が纏まり、朝のカフェイン摂取をしながら彼らに囲まれるナマエの姿を見守るのが、すっかり朝のルーティンとなってしまった。

「ナマエさんはよっす。今日は伏黒と棘先輩、真希先輩が来てますよ。釘崎とか他の先輩達は任務で。何人かは朝帰るからその時来るって言ってましたよ」

 楽しそうに話しかける虎杖悠仁は、今回彼女に救われた一人といえる。ナマエは羂索との戦闘に赴く前、予め伏黒と虎杖に作っておいた呪符を手渡していた。それは、彼らを一度だけだが、絶対領域の如く守護するまじないのかけられた札であった。結界術や呪符に精通している彼女ならではの仕掛けだ。消息を絶ったナマエは、どういうわけか呪霊サイドに大量の宿儺の指が存在することを知っていたらしい。その理由までは聞けていないと五条は言っていた。ナマエが危惧したのは、過去に虎杖が絶命した時に虎杖と宿儺の間で何か縛りを結んでしまったのではないかということ。それが今回の騒動に乗じてことが動くのではないかということ。万が一宿儺の指が虎杖の手に渡り、何らかの手段で全て取り込まれてしまえば、主導権が宿儺へと渡り死刑執行対象となる可能性も否めない。その為、たった一度だけだが、強い呪力から彼の身を守れるよう呪符を託したのだった。
 伏黒にも同様のものを与えたのは、虎杖の話の中で「両面宿儺が伏黒の術式に興味を持っていた」と聞いていた為だろうと、後に伏黒自身から語られた。というのも、虎杖の札が発動したことで託された札の効力を理解し、宿儺との関連でこの呪符を託されたのだと察したからだった。

「まだ起きぬのか、この女は」
「ゲッ!宿儺お前出てくんなよ!」
「稀有な術式だからなァ。揺籠が発動してるんだろう」
「ゆりかご?」
「おい両面宿儺、その話を聞かせろ」

 ゲッゲッゲッ、と不気味な笑いを洩らす両面宿儺は未だ虎杖悠仁という器の中に存在する。回収された指は、五条が秘密裏に保管してるとかしてないとか。
 ナマエの術式は明らかになっていない事が多い。今も「揺籠」という彼女の家紋付きの古書の何処にも載ってなかったキーワードに家入は引っかかった。

「天元に聞けば良かろうよ、小娘」
「……いや良い、概ね予想はつく」
「フン、つまらんな」
「医者舐めるなよジジイが」
「呪いの揺籠、という言葉だけ教えてやろう。あとは五条家の童が知っとる、多分な」

 そう言って不機嫌そうにへの字に曲がった口は消えてしまった。虎杖は「自由気ままかよ」と呆れていたが、彼女の目覚めに繋がるかもしれない情報に、家入は希望を感じずにはいられなかった。





「あー呪いの揺籠まじないのゆりかご、ねぇ……」
「お前は知ってたのか五条」
「知識としてぼんやりとだけな。今多分うっすら見えてるのがそうかなぁ」

 午後になって訪れた五条に今朝の会話を聞かせると、既知のことだったようで目隠しをずらしてまじまじと観察している。曰く、蝶の羽化する前のような、繭のような守護術式がナマエを包んでいるらしい。そんな中で眠り続ける彼女。確かに「まじないのゆりかご」と呼ぶに相応しいもののようだ。

「恐らくだけどね。元々星漿体の身代わりを生業としている術式だから、星漿体が存在しない時は唯一の存在になるワケだ。その時に死ぬ事がないように、オートで発動する防衛反応的な術式だろーね。封印されてた箱の中、結構カオスらしいから、それから自身を守る為に発動したんじゃないかって天元様が言ってたよ」

 目覚めない理由は分からないって言われちゃったよ、と五条は俯く。
 ある意味今回の騒動で一番心に傷を負ったのはコイツかもしれない。ぶっちゃけ自分一人を捕えるために何万人もの非術師が巻き込まれようと、そこまで意に返さないだろう。そういうクズなのだ。しかし、ナマエはそれを良しとしなかった。だからこそ上層部に巣食っていた羂索の内通者から逃れる為に一人消息を絶ち、全ての準備を済ませて鉄火場へと臨んだのだ。
 同期である私−家入硝子にも、五条悟にも相談出来なかったのは、どちらも厳重にマークされている可能性があったからだろう。また、父である夜蛾も学長という地位にあり、学生屈指の実力を持つ乙骨は時期悪く長期の海外出張へと赴いていた。彼女の周りには、安易に頼れる人間が存在しなかったのである。異常事態を予見しつつも口を閉ざし続けた彼女の事を、誰も責める事は出来ない。そうさせてしまったのは間違いなく私たちなのだから。そしてそれを一番重く受け止めているのが五条だろう。

「2年の奴らが早く起きろって言ってたよ。お泊まり会しないまま3年になっちゃうってさ。憂太も手合わせしたがってる」

 するりと優しい手つきで真っ白なナマエの頬を撫ぜる五条は、外からの光の中に今にも溶けて消えてしまいそうだった。



未だ揺籠は彼女を離さない


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