『ねぇ、起きて』
あなたはだあれ?
『誰でも良いのよ。ほら、貴方を呼んでる』
呼んでる?私のことを?
『貴方が居なくて悲しんでる人がいる』
そんなひと、いないよ
『目を開けてみれば分かるわ。さあ、時間よ』
まって、行かないで
『いってらっしゃい、ナマエ』
まって!私はまだ貴方のことを
『会えてよかった。もう此処まで来ては駄目よ。帰れなくなってしまうから』
まってよ!ねぇ!貴方、もしかして

 ナマエと殆ど変わらぬ背丈の彼女は、彼岸花の咲き誇る中、何も言わずに微笑んでいる。なんとか近づこうとするナマエだが、足元の水の流れに足を取られて前に行くどころかどんどん離れてゆく。真っ赤に染まった彼岸花がどんどん褪せていくように、視界から遠ざかって、とうとう視界は閉じられた。

「いかないで、お母さん……」





 任務を終えて高専への帰路につく。運転席の伊地知も僕も、昨年の渋谷での事件以来、殆ど休みらしい休みもなく働き詰めで正直参っていた。いや、これぐらい多忙な方が彼女のことを考えなくて済むから良いのかもしれない。伊地知に関しては、今回補助監督が集中的に狙われたことによる死者や怪我人多数だったこと、依願退職が多かったことで、更なる多忙を極めているらしい。

 ナマエという存在が、高専にどれだけ貢献していたのかを、皮肉にも失ってから知る事となった。高専内で殆どの時間を過ごす彼女は補助監督が出払って溜まりがちな書類をテキパキと進め、意外と得手不得手の出る結界の結び直しは、都内であれば一人で数時間程であっという間に終わらせてしまう。道中で見かけた呪霊は相当入り組んだ様子でなければ、まるで散歩のついでとでも言わんばかりにサクッと祓ってしまう。まるで歩く呪霊殺戮機だ。

 そんな彼女が眠りについたことで、まず純粋に彼女が請け負っていた数多くの任務が僕たちに降ってきた。特に担任を請け負う僕は、彼女が如何に僕ら教師陣が授業に時間を割けるよう気遣ってくれていたのかを知った。
 次いで、伊地知曰く高専内の事務処理が溜まる一方らしい。地味な作業程、猫の手も借りたくなるとぼやいていた。確かに言われてみれば、幼女姿だった頃から度々スティックのり片手に領収書をまとめていたな、なんて思い出す。
 そして最たるものが、呪霊任務の件数が爆発的に増えた。ナマエが道すがらに祓っていたという呪霊に対して、一件一件任務を組むとなると、膨大な数になるのだという。不幸中の幸いだったのは、未だ眠る彼女が事前に用意していた呪符の陣により下級呪霊は大人しくしていることだろうか。その効力もいつまで保つのかは分からないが。
 術師や補助監督のスケジュール調整を担う伊地知は最初こそ阿鼻叫喚していたが、今では無心で調整をしているという。流石の僕でも今の伊地知を虐める気にはならなかった。

 外を流れる景色はまるで帳が降ろされたかのようにすっかり暗かった。何時か確認しようとスマートフォンを取り出したが、生憎充電切れだった。そういえば最後に充電したのはいつだったか。伊地知に訊ねようかと口を開きかけた時、車のスタンドに差し込まれた高専配布のスマートフォンが着信を知らせた。僕は表示された名前に目を疑い、伊地知は慣れた手つきでスピーカーにして電話に出る。

「こちら家入、ナマエが起きた。急いで帰って来いよ、馬鹿ども」

 安全第一の伊地知が自発的にこんなに速度制限ギリギリを攻めてるの、多分見るのは最初で最後かもしれないな、と思いながら、目覚めた彼女に言ってやりたい事で頭がいっぱいだった。





「あ、悟くん任務お疲れ様」
「遅いぞ旦那、私が帰れないだろ」
「硝子ちゃん駄目だよ、速度制限無視しろって伊地知くんが虐められちゃう」

 まるで何事もなかったかのようにぽんぽん会話を交わす二人の姿に、僕はすっかり毒気が抜かれてしまった。ちなみに話題の伊地知は惜しむ様に事務室へと駆けて行った。仕事が山積みなのだという。数ヶ月ぶりの再会となる、僕への気遣いも含まれていただろう。

「ナマエおはよう、調子は?」
「封印で時間が止まってただけだからねぇ。特別な事はないかな。プロに聞いて貰えると助かる」
「プロ、問題なーし。一応数日は経過観察な」
「あれ?!今気づいたけど硝子ちゃん煙草辞めたよね?!何で匂いするの?!!」
「「誰のせいだよ」」

 ナマエが眠りについてから、正確には渋谷事変のあったあの日から、硝子は再び喫煙者となった。吸わなきゃやってられん、と隈を携えた彼女にカートンで差し入れるのはもはや日課に近い。昔ほどのペースではないが、吸っている量はそれなりだろう。

「……で、ナマエ。僕らに話す事があるよね?それも積もりすぎて雪崩が起きそうなくらい」
「アタシ夜勤だからこのままいくらでも付き合えるぞ?」
「ひえぇ……」
「ナマエさん起きたってホントすか?!」

 詰め寄っていた空気をぶち壊すだけでなく、ドアまでも壊す勢いでやってきた悠仁を始めとする生徒の面々。おはよう、と変わらぬ笑みを浮かべる彼女を視界に捉えて、歓喜する者、泣き出す者、三者三様の反応で目覚めた彼女を出迎えた。しかし最初の言葉は皆同じ様だった。

「「おかえりなさい、ナマエさん!!」」

 ゆりかごの呪いは今、解かれたのだ。



待ち人来たるは彼岸の彼方


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