「うわ!冷蔵庫の中なーんもない!」

 数ヶ月ぶりの帰宅なのに、真っ先に冷蔵庫の中を確認するナマエに真面目か、と内心ツッコミを入れる。
 渋谷事変以降殆ど帰ることがなかった自宅は、ナマエが返ってきたことで、再び自身の帰る場所となった。彼女が居ないだけで酷く孤独にさせる家は室内は出来る範囲は自分で、時々申し出た生徒達も一緒に掃除をしていた。だから彼女の部屋も含めて室内は綺麗に保たれている。しかし長居する気にはどうしてもなれずに(時間を捻出できなかったのもあるが)、外食ばかりになった結果、備蓄が空っぽになるのは必然だった。

「ナマエ、おいで」
「んー?はぁい」

 ソファから声を投げかけると、他のストックも確認すべくしゃがんでいたであろうナマエがひょこりと顔を出す。続きは後にする事にしてくれたのか、パタン、と閉じられた音に続いてととと、と素足でフローリングを歩く音が響いた。少しつんのめりがちに、誤魔化すようにソファに座った彼女をぎゅう、と抱きしめる。

「ねぇ、七海と何話してたの」
「そんな大したことは言ってないよ」
「ふぅん。例えば?」
「私の代わりに悟くんと戦ってくれてありがとうとか、悠仁くんに君の意志はちゃんと受け継がれてるよ、とか?」

 最後に付け加える様に「謝りたいこともあったけど、七海くんに怒られるからやめたの」と言う彼女は、少しだけ瞳の中に寂しそうな色を含んでいた。そうだね。僕もそう思うよ。そう伝えればナマエは僕の大好きな笑みで「そっか」と呟いた。

「泣いてるの?悟くん」
「どうしてナマエは泣かないの」
「どうして泣く必要があるの?」

 予想外の返答にがばりと彼女の両肩を掴んで顔をまじまじと観察した。隠し上手な彼女の事だから、いつもの如く悲しみを押し殺しているものだとばかり思っていた。どうやらそうではないらしい。彼女の小さな両手が僕の頬にあてがわれて、そっと口付けをされる。掌からは彼女の優しい呪力が緩やかに僕に流れ、侵蝕していく。

「全く悲しくない訳じゃないよ。もっと救えた命はあるかもって思う。でもね……」

 救えなかったと全てを背負う事は傲慢であると、彼女は云った。ナマエは、彼女に出来る最善をやり切ったのだ。最悪の状況だけはなんとしても避けられるよう思案し、そしてやり遂げたのだ。続けて彼女は云う。救えなかったと嘆くのは、死者への冒涜だと。死んでいった術師は、呪術師として最後まで戦い抜いて死んだのだから、悲しむのではなく賞賛すべきだと。
 七海の墓前で1人になった後、最後に彼女は労いの言葉をかけたという。頑張ったね、痛かったよね、もうゆっくり眠っていいからね。そう伝えたという。

「封印の中でね、夏油くんと最期のお喋りをしたの、私。」

 その顔は酷く優しい。僕たちの経験した青い春を想起しているのか、何処か遠くを見ているようだった。京都に居たことで傑の最期に居合わせられない事が決まっていた彼女にとって、箱の中での時間は、あの日を取り戻すかのようなかけがえのないものだったのだろう。緩慢な瞬きをしてから細められた瞳。きっと大切な宝物を取り出すかのように、その時の会話を反芻していた。

「彼が言ったの。『ナマエが変わらず居てくれたから、最後まで呪術師として高専で過ごせた』って。私は変わり方を知らなかっただけだし、それを引け目に感じてた。けれど、彼は肯定してくれていたの。昔からずっと。それが私らしさだろうって」

 親友の言葉にハッとした。ずっと過保護だった僕はすっかり見落としていたけれど、彼女だって僕らと過ごす中できちんと成長していたのだ。決して僕らとはベクトルの違うものでも、成長には変わりない。作っていると思い込んでいた彼女の表情は、もう充分彼女自身のものだったし、そこに嘘も隠し事も殆ど無かった。
 それから彼女は"親友"と自称した硝子の言った通り、強かだった。簡単には譲ってやらないという確固たる意志があったから、僕らに何も告げずに消えることを選べたのだ。僕たちを信じる強さを持っていたから。
 弱かったのも、彼女を信じきれなかったのも、全部僕だった。もっと素直に彼女を見守って良かったのだ。1人の女性として、対等に見るべきだったのだ。

「……ナマエ、おかえり」
「ただいま、悟くん」

 今度こそ帰ってきた温もりを、僕は失くさないようにそっと抱きしめた。決して無傷で終わった戦いではなかった。心も、身体も。それでも、今この場にいる僕らが生きて再会出来たことを、心の底から喜ぶことを赦してほしい。

 彼女が消えたあの日、机の上には僕の術がかけられた婚約指輪が残されていた。代わりに、滅多な事ではつけなかった結婚指輪を彼女は指に嵌めて去っていった。今も彼女の指では変わらぬ煌めきが存在している。置いていく事だって出来たのに、わざわざ付け替えてまで連れていってくれたことに、彼女からの信頼と愛情をひしひしと感じる。
 絡まった視線は合図だったかのように、どちらからともなく、ゆっくりとソファに沈んでゆく。生憎ベッドに運んでやれる余裕を今日は持ち合わせていない。初めては大人しく此処で僕に捧げてくれ。僕も精いっぱいの愛情を捧げるから。

 その日僕たちは、初めて心の底から全てを捧げて交わった。途中涙を浮かべた彼女が「幸せでしんじゃいそう」なんてとんでもない殺し文句を零した。それ以上聞いたら加減が出来そうになかったから、僕は黙らせるように彼女の発する音ごと、やや乱雑に唇を奪った。驚いた顔を一瞬だけ見せた彼女は、やはり陽だまりのように温かい。ふわりと浮かべた微笑みは、全ての悲しみも苦しみも洗い流してくれるようだった。



はじめて君を掻っ攫った日


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