「え?私ご指名の任務?」
「ッス。復帰早々申し訳ないんスけど……」
久々の高専学長室で悟くんの溜め込んだ領収書を纏めている最中、訊ねてきたのは眉をハの字に顰めた新田ちゃんだった。入室前のどんよりとしたオーラから、まさか新田ちゃんが現れるとは思わず、ひとまずソファに座るよう促した。彼女もここ数ヶ月多忙を極めた1人であり、今は京都校へと戻ってしまった弟くんも危険地帯と化していた渋谷に滞在した事で、精神的にもキているだろう。彼女は生徒の面倒見が大変良いが、それは弟くんの存在が大きいのだろうと思う。
とりあえず少しでも彼女の重い空気を払拭出来たらと、コーヒーメーカーに伸ばしかけた手をティーポットに伸ばし、熱湯で軽くすすいでから茶葉を蒸す。簡略的な淹れ方で申し訳ないが、今日も時間の合間を縫って来てくれたのだろう。あまり待たせることは出来ない。
「少しお茶にしてからお話聞くよ。昨日、帰れてないって聞いてるよ」
「……ナマエさんんんんんん」
「はいはい泣かない泣かない」
啜り泣きながら紅茶の香りを嗅ぐ彼女の目にはうっすらと隈が見える。コンシーラーを拭ったらさぞかし深いものなのだろう。
渋谷事変以降忙しいのは知っていたが、もうあれから随分経つ。いくら常時人不足の呪術界でも、ここまで繁忙期が長引くことがあるだろうか。あの大事件を経験して大きくステップアップした一年生たちも最前線で活躍していると悟くんから聞いている。疑問をうっすら抱きながらも、私のまだ知らない事情があるのだろうと、今の彼女に尋ねる事はやめておいた。
「実は発現条件も等級もハッキリしてるんスけど、その条件を満たせる方がナマエさんしか居なくて」
「条件?私が?」
「えっと、花嫁、です……」
言ってしまった、とでも言い出しそうな新田ちゃんはぎゅっと両手も目も閉じてしまった。成る程、確かにそれは私しかいないかもしれない。ただでさえめでたい話が少ない界隈なのだ。仮にそういった話があっても、依願退職してしまう事が多い。あと単純に女性術師が少ない。今回の呪霊は2級。戦闘向きの女性術師で単独行動が可能な、現役花嫁。うん。なんて狭き門なんだ。
例えば野薔薇ちゃんや真希ちゃんを花嫁に仕立てて複数名で当たれば祓うことは容易いだろう。問題は、"嘘の花嫁"で発現するかどうかなのだろう。人不足の中空振りを避けたい人事は、苦渋の選択で復帰したての私にこの任務を持ってきたのだろう。私は別に構わない。ただ、問題は彼である。
「これ、悟くんに話は……?」
「あああああああああ〜〜……」
「ににに新田ちゃんしっかりして!聞いた私が悪かった!ごめん!!内密にね!そうしよう!」
新田ちゃんがこれでは廃人になってしまう。それは何としても阻止せねばなるまい。私は任務の詳細を頭に叩き込んで、当日の送迎だけ伊地知くんになることだけ最後に了承し、その日の会話は終わった。
当日、復帰最初の任務に向かうべく、私は高専の正門前で伊地知くんを待った。いつもなら時間の10分前には来る彼が居ないとは、本当に忙しいようだ。いつだったか、彼を労いたいと思っていたが、いよいよ実現しないと過労で壊れてしまうんじゃなかろうか。
日の温かさから季節の変わり目を感じる。私が眠りにつく前はハロウィン間際だったのに、季節を一足跳びしてしまった。悟くんの誕生日を祝えなかったと零したら「後からでも嬉しい」と、29歳児は満面の笑みで今度ケーキを焼いてくれとねだってきた。
「ナマエさん!お待たせしてしまってすいません!ちょっと立て込んでしまって、どうぞ乗ってください」
「おはよう伊地知くん。忙しいのは知ってるから気にしないで、大丈夫だよ」
「私が怒られるんです……」
怒られる?はてと思い頭に浮かぶのは29歳児の顔。病み上がりという意味ではベビースモーカーも浮かぶが、今の伊地知くんに怒ることはしないだろう。するとしても「休め」と別方向にお叱りがくるだろう。ならやはり怒られる相手は29歳児か。
「こんなこと告げ口しないよ」
「あっいえっ、そうではなく……」
「あああ伊地知くん前前!前見て運転して!!」
腑には落ちなかったが、これ以上言及するのはやめた。これでは呪霊に殺される前に死んでしまう。やはり新田さんが来るべきでは……なんて呟いていたのが気になったが、やはり命は惜しいので、新田ちゃんに見せてもらった任務のデータを脳内で反芻することにした。紙面でもスマホにも受け取ることはしなかったのは、どうやら悟くんにバレたらマズいから。
これから向かうチャペルは、写真で見た限りは現役バリバリの場所でとても呪霊が溜まりそうな雰囲気はなかった。しかしそこに花嫁を狙って呪霊が現れるというのは一体どういうことだろう。妬みの線が強いだろうか。
まあ、こんな真面目に呪霊の推測をする事が全くの無駄であったと知るのは、もう数時間先の話であるが。
「あ、伊地知さんお疲れッス!と、ナマエさんもご到着っスね」
「あれ?新田ちゃんもいるの?」
「ハイ、ここからは私が補助します!どうぞこちらに!」
「えっあっ、ちょっと、伊地知くんは?!」
満面の笑みで会釈をする伊地知くんは、何も言わない。そして私の腕を引く新田ちゃんも早く早くと急かす一方、何故そこまで急かすのかは教えてくれない。開かれた自動ドアの先に踏み込んだ瞬間、私は全てを悟った。ああ、騙された。任務地ならば居ないはずのチャペルのスタッフさんに囲まれて、私は新婦控え室へと連れ込まれる。だから悟くんに内緒だったのか。ならば乗りかけた船だ、最後まで付き合ってあげようじゃないか。
「新田ちゃん、嘘が上手くなったね」
「ナマエさんガチで心配してくれるから胃に穴空きそうでした、多分伊地知先輩も同じだと思うッス」
「でしょうねぇ。ちなみに協力者は?」
「ナマエさんの未使用の札を持ってた生徒達ッス。まぁ、協力してる人は皆乗り気なんでほぼ全員ッスから……多分名前上げ終わる前に着替えが終わりますよ」
そんなにいるのか。これは誰かが呪力を悟らせない結界術でも使ってるのか。あ、私の札が元になってるのか、納得。まさか自分の術に騙される日が来るなんて。思わず笑っていたら、急に締められたコルセットに内臓を持っていかれるかと思った。
「あ、来ましたね。ハーイ今行くッス」
「着替えは済んだのか」
「あとはヘアセットだけだよ、正道、パンダ」
「ナマエ悪いな〜正式なモンじゃねーけど、形だけでも皆祝いたかったし見かったんだよ、花嫁姿のナマエをさ」
「最近みんなが忙しかったのはこの時間を作る為ね?」
「それでも挙式の数時間だけだ。すまないな、ナマエ」
正道が鏡越しに頭を下げるのが見えて、振り返りたくなる衝動に駆られるが、ヘアセットの邪魔をしないよう何とか衝動を抑え込む。すまないだなんて、そんなことはない。寧ろ、奇跡のような時間をこれから与えられるのだ、私も、悟くんも。
海外出張さえ日常の、世界に求められる存在の悟くん。そして星漿体の代わりにもなりうる稀有な術式故に自由の許されない私。この2人が外でこれだけ時間を作ることだけでも骨を折るというのに、そこに祝う為に来る人達の調整も考えたら、それは伊地知くんが10人いたって足りなさそうだ。それでも時間を捻出したというのだから、この後の皆んなのバタつく姿が目に浮かぶようで、少し申し訳なく思った。きっと学長自身も任務に赴くのだろう。
「正道、私こんなに愛されていいのかな」
「良いに決まってるだろう」
「ナマエは生い立ち的に足りないくれーだろ」
パンダのくってりした声に私はそっか、と洩らす。世界を知れば知るほど、自分が異端な生い立ちだったと理解して怖くなった。けれど、鏡越しの2人は愛されて良いと言う。後ろで控える新田ちゃんも絶えない笑みがそうだ!と言っていた。
ああ、私愛されて良いんじゃない。とっくの昔からこんなにも愛されてた。そして私はこれから、一番愛してくれた彼のもとにゆくのだ。緊張で少し震えた指を正道がふんわりと掬い上げる。私をあの部屋から連れ出してくれた時と変わらない温もりが、指先越しに伝わってくる。
「私、夜蛾ナマエになれて幸せだよ。あの日迎えに来たのが正道で本当に良かった。……ありがとう、お父さん」
心からの言葉は、愛する父親を泣かせるには充分すぎたようだった。これからもっと泣かせるというのに。呆れたパンダがしっかりしろ〜と声をかける姿に、私は笑いが止まらなかった。