復帰最初の任務だというのに朝が早いのだと言って、朝起きた時にはナマエの姿は無かった。今思えばいつもベッドに置き去りになるのは彼女で、いつもこんな気持ちだったのか、と少しだけ申し訳ない気持ちになる。ぺたぺたと裸足でフローリングを踏みしめると、春に差し掛かるというのに随分と冷えていて少し震える。リビングに行くとナマエからの朝食の所在が書き置きされていて、それだけで寝起きの寂しさが和らぐ。なんて単純なんだろう。次からは僕も書き置きをしてみようかな。なんて書いたら彼女は喜んでくれるだろうか。まあ本人に訊いたら「書き置きがあることが嬉しい」なんていうのだろう。そして僕の好きな笑顔でありがとう、なんて大したことじゃないのに言うのだ。
「……伊地知、何から訊いて欲しい?」
「ななな、何も聞かないでください」
「伊地知あとでマジビンタ」
高精度の結界術。六眼はキチンとその軸にあるのがナマエの呪符であると見抜いた。伊地知も馬鹿じゃないから、騙せないと分かった上で、それでも悪足掻きとして"目隠し"をしたのだろう。尤も言い出しっぺは他の奴らだろうが。
「はー……何する気か知らないけど、さっさと済ませよう。これ入って良いの?」
「はっ、ハイ、どうぞお進みください」
「へいへい」
僕が一歩踏み込んだ瞬間、飛び込んできた情報量に一瞬脳がフリーズした。色鮮やかな花びらが舞う中、揚々とクラッカーを鳴らす生徒たち。そしてヴァージンロードの先で待つのは。
「………ナマエ、」
「悟くん、待ってたよ」
目を奪われる、という言葉があるが、今の僕が正しくそうだった。見ることは一生叶わないと思っていたウェディングドレス姿の彼女は、花吹雪の中、ヴェール越しに微笑みを携えて待っていた。周りの野次に近い祝辞が霞むほどに彼女の声だけが鮮明に耳に届いた僕は、目隠しを外して、裸眼で彼女の姿を記憶に焼き付ける。きっと最初で最後だろうから、もう少しだけこの景色を堪能させてくれ。言葉にしていないのに彼女は「仕方ないなぁ」とふにゃりと困り顔をしてみせた。
「悟くんを泣かせるなんて、発案者は天才ね」
こんな時くらい、泣くぐらい多めに見てくれよ。茶化す生徒に囲まれて、僕は何か報われたような気持ちになりながら、ようやっと彼女のもとへ歩み出した。
式はあっという間に過ぎていき、終わる頃には慣れないコルセットにナマエはバテて、生徒たち含め術師も補助監督も、蜘蛛の子宜しく散り散りに去っていった。有り難いことに僕とナマエの2人はオフだという。どこか新婚旅行でも行く?なんて茶化して行ってみると、画面越しにイタリアに行きたいと言うので映画のおともを買い込んで帰宅することにした。先に夕飯の仕込みをしたいと言う彼女の声をソファ越しに聞きながら、ふと沸いた疑問を投げかける。
「ナマエはいつから知ってたの?」
「今日あのチャペルについてから。任務なのにスタッフさん勢揃いだったんだもん」
「あーなるほどねぇ……」
「新田ちゃんに見事に騙されちゃった。今思えば気づける瞬間は幾らでもあったのにねぇ」
「伊地知に任務説明させなかった辺りがミソだな」
「それ私も思ってた」
けらけらと笑う彼女は手早く仕込みを終えて、メールを知らせたスマホを手にソファの隣に座った。返信が終わったら再生するか、とリモコンを取ろうと手を伸ばした。すると背後からひっくり返るような声が聞こえて慌ててどうしたか訊ねると、彼女は一言「心霊写真」とだけ。メールの送信者は硝子だ。始めこそ驚いた様子のナマエだったが、今ではひぃひぃと止まない笑いに涙を浮かべている。笑わせる心霊写真って何だよ。そう思っていたら僕のスマホにもメールが届く。硝子からのメールは添付画像がひとつだけ。用件はナマエの方にだけ送ったのだろう。ものぐさな奴だ。数少ない同期に呆れながら添付された画像をタップして拡大する。そこに写っていたものは。
「……傑?」
「まさか友達で本物の心霊写真見るとは思わなかった、ははっ、悠仁くんの後ろ、七海くんと灰原くんまでいるの、ヤバいよね」
集合写真の中心、ナマエの左右に僕と硝子、そして2人の肩を抱きナマエの後ろで満面の笑みをカメラに向けている制服姿の傑。そして悠仁の傍には似たような明るい笑みでピースをする灰原と、それを咎める素振りを見せる七海。2人も制服姿だった。
「みんな彼岸の向こうから祝いにきてくれたんだね」
おそらく生を司る術式を持つナマエの呪力と、結界術で彼女の呪符が使われていたことが作用して、彼らの姿が映り込んでしまったのだろう。今日一番を争うサプライズだ。
「ねぇねぇ悟くん、幸せになれた?」
こちらを窺うように訊ねる彼女は、似た話を学長と控え室でしていたのだと言った。彼女らしい回答だな、と思いながら、それならば僕の……俺の答えなんて聞くまでもないだろう。思い返すのは彼女と初めて出会ったあの日、初めて六眼が騙られた日だ。
「あの日、俺たちと出会ってくれたのがお前で良かったよ」
あの日から俺はとっくに幸せのチケットを手にしていて、手をとってくれた日からは毎日が幸せだった。1人なら何でもないことが、ナマエと、傑と、硝子と、生徒たちと、共に経験するだけで全く別物に変わってしまう。
ナマエがくれた幸せのかけらは、とっくに両の手では溢れてしまう程なのに、そんなのお構いなしにまだ足りないとでも言うように与え続けるのだ。始めこそ自己犠牲の精神かと思っていたが、あくまで彼女の自己満足であると知ってからは、甘んじて享受している。きっと彼女の与えてくれるものは俺を構成する一部になっていて、彼女が死ぬ時、俺もまた死ぬのだろう。
『二人を死が別つまで』
チャペルでの言葉を思い出す。呪術っぽい言葉だな、と思っていたら、その場で呪術っぽい、とナマエが漏らしていて笑ってしまった。
上等じゃねーか。
ならとことん足掻いて生きて、ナマエの事を守ってやろうじゃねーか。改めて眺めた写真の親友は、ずっと俺の見たかった笑顔で、でも何処か挑発的な色を孕んでいる。俺の分も守ってみろとでも言いたげな、そんな表情だ。ナマエ自身はそこまで思い至ってるかは知らないが。
「なぁナマエ、俺の宣誓きいて」
「えっ何々、すごく気になるんだけど」
にんまりと笑った俺に何かを察したのか、後ろに下がろうとする彼女の腰を掴んで逃さない。がしりと押さえ込まれたナマエは逃げるのを諦めたのか、降参した様子でなあに?と訊ねた。果たして俺の宣誓は、彼岸の向こうまで届くだろうか。
「一生幸せにしてやるよ、だからお前も幸せにしてくれよ」
「ははっ、みんながいれば私達幸せでしょ?」
二人だけじゃ幸せになれないことを彼女はよく知っている。陽だまりのような微笑みは、ようやっと僕らに春をいざなってくれたようだった。