「……聞いてない!」
「言ってねーもん」

 五条家を後にした私はてっきり京都駅から新幹線に乗るものだと思っていたのに、着いたのは品格を感じさせるホテル前、あれよあれよと言う間にスイートルームに放り込まれてしまった。私は聞いてないぞ。

「今日帰らないと任務が……」
「12月7日、12月24日、年末年始に……バレンタイン?」
「へ?」
「お前がぐーすか寝てたお陰で貴重なイベント総スルーだったの、分かる?だから此処にいる間ぐらい俺と一緒に楽しんでよ」

 そこまで言われては何も言えなかった。長い眠りについたのは不可抗力だが、彼の瞳はまた私が消えてしまう事を恐れているのだ。そうなってしまう前に、出来る限りの愛を私に贈らんとしているのだ。口先では自身の為だと言うが、本当は私の為なのだと言葉に滲む感情から伝わってきた。
 差し出された手を取って、最奥の部屋までエスコートされる。勢いよく開かれたカーテンからは、まもなく落ちる日が未だ輝きを主張していた。暫く眺めていると、とぷん、と日は落ち切ってしまった。

「悟くん、本当に私で良かったの?」

 何故かはわからないけれど、ずっと蓋をしていた不安がぽとりと落ちた。伝えずに胸の内に秘めていようと思っていたのに、つい口をついて出てしまった。思わず口を手で塞ごうとしたが、片手は悟くんにぎゅっと掴まったままだ。

「ナマエが良いんだ、それじゃ駄目?」

 彼の迷い無い言葉に涙がするりと頬を伝う。泣く程嬉しいの?と茶化す彼は、私の抱えていた漠然とした不安をしっかり見透かしていたらしい。彼の前で泣いてばかりだ、私は。いつからこんなに弱くなったのだろう。抑えようとする程に上擦るしゃくり声に優しく「泣いてる顔見せて」なんて言うのはずるい。

「よわっ、くてごめん、ねっ……」
「泣く事が弱い事になんの?」
「……ちがうの?」
「少なくとも俺は、泣けるのは一種の強さだと思ってるけどね。あとナマエの泣き顔はソソられる」
「そっ……?!」

 すとん、という音が足元に響いて視線を落とすと、帯と共に袴が落ちていた。着物はだらしなく前開きになっている。呆気に取られていると後ろからひょいと横抱きにされて、そっとソファに下ろされる。頬に彼の唇の温もりを感じて身体を硬くすると、「今は食べないから安心しろよ」と中々の問題発言をしてから、部屋着に変えておいで、とバスルームに促される。
 いつの間に用意したのか、新品のルームウェアが掛けられていた。だから荷物それだけかって言及してきたのか。1人納得して、これまたいつの間に張っていたのか、湯気立つバスルームを確認して、残りも皺に気をつけながら一枚ずつ脱いでいく。ソファで見上げた蒼い瞳の鋭さを思い出して、心臓は未だ高鳴っていた。





「……っぶねー、アイツの泣き顔反則だよマジで」

 バスルームから聴こえるシャワーの音に掻き消される五条の独り言。今の彼女にはまだ聞かせられない、聞かせたくないお家事情の数々。側女でも作って世継ぎの準備だけはしろだの、彼女に早く孕ませろだの、ドロドロした世界をナマエはまだ知らなくて良い。29年生きてきたとしても、精神年齢までが追いついている訳ではない。彼女の場合、やっと人間らしい生き方に手をかけたばかりなのだ。もう少しぐらい自由にさせてやりたい。彼女が眠っている間に1人本家に戻って両親に頭を下げて頼み込んだ事だった。

『籍は入れた。でも今はまだ夜蛾ナマエとして、自由な世界で生きて欲しいんだ。アイツはやっと羽化したところだから』

 今日の父との密談も、大量の見合い写真が届いているという"事実報告"だけだった。それ以上は何も言わずに、寧ろ娘がいない所為か、もう少し長く帰って来れる日はないのか、母さんばかり狡いと拗ねていた。その様子はナマエから見たらきっと「悟くんそっくり」なのだろう。実際は逆なのだが。
 ただでさえ難しい御三家の中にすらするりと入り込んで魅了してしまう彼女は、ひと誑しという言葉には収めてはならない、人を寄せ付ける力があった。まあ、他所にやらない為にさっさと婚約もしたし籍も入れたのだから、俺自身も大分その魅力に溺れている。

「さて、どうすっかねぇ……」

 本当ならあのままぐずぐずに甘やかして、何を不安に思っているのか全て暴いてしまうつもりだった。けれど、潤んだ瞳で見上げる彼女の透き通った肌と着物の隙間からチラつく素肌に我を忘れかけた自分がいる。彼女の本音を引き出す事が、こんなにも難しいことだったとは聞いてない。着物が皺になるのも厭わずソファに寝っ転がり左手を翳す。彼女と対になるシンプルなプラチナを見つめて溜め息が漏れた。
 最強と言わしめる五条悟でも手こずる相手、どうやって攻略していこうか。ふと学生時代の愚直に彼女に感情をぶつけられた青い自分が少しだけ羨ましく思えた。バスルームから聞こえた声に「次俺入るー」と平然を装った返答をして、もう一度だけ溜め息を吐いた。

「さっ悟くん!これ!」
「………あァ?んだこれ」

 まだ乾ききってない髪から雫を落としながら慌てた様子ですっ飛んできたナマエの手にはスマホ。開かれたメールの送り主は、俺の嫌いなあの名前。

「京都校に明日五条も顔出せって、学長が」



彼岸の逢瀬は束の間に


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