「身体の構造的は私と変わらない。ただ、身体と年齢のズレで本来ある筈の経験が無いから、何とも言えないね。」

 東京校に戻り真っ先に駆け込んだ保健室では、立派な隈をこしらえた硝子ちゃんが湯気立つコーヒーを揺らしていた。私の話をひと通り聞き終えた彼女はようやっとマグカップに口をつける。学生時代に贈ったマグカップはすっかりコーヒーの色が落ちなくなっている。近々新しいものを贈ろうかな、なんて少しだけ現実から余所見をする。
 未熟だった身体は一足飛びに成長したが、私は未だ初潮を迎えていない。でも体内の器官は成熟しきっているらしい。件の楽巌寺学長の話も相まってわからない事だらけだ。
 ただひとつ、京都から東京への帰路の最中、私はやはり母の母胎から産まれたという確信を得た。でもなければ、呪うほど愛憎を募らせるようなことは無い筈だ。縋るような希望を見出して私は私に出来ることを見つける為に奔走するしかない。楽巌寺学長は言葉こそ辛いものだったが、無意味なことをする方ではない。

「つーかさ、ナマエに子ども欲しいとかそういう願望あったんだね」
「え?いや、特別考えてないよ」
「……はぁ?じゃあなんで」
「五条家の妻なら、いずれ必要、だから」
「ホント馬鹿だねーアンタって子は」

 飲んでいたコーヒーを置いた硝子ちゃんは、私の椅子の前で屈み、俯く私の顔を覗き込みながら冷え切った私の手を細白い彼女の手でそっと包んだ。職業柄彼女の指先、特に爪はとても美しく整えられていて、目まぐるしく変わるものにばかり目を回す中で変わらないものを見つけて少し気が緩む。最近常に己を叱責しないとすぐに泣いてしまう。弱い私に居場所はない。強くありたいのに、みんなジェンガをするかのように、じわじわと私の心を揺さぶるのだ。

「お家事情なんて馬鹿に丸投げでいいじゃん。何が不満なの?」
「……楽巌寺学長が、側女いるかって聞いてた」
「五条に?」
「悟くんに」
「あははは!何それ?絶対無いでしょ、これからも作るつもり全然無いってアイツ!ナマエ、アイツに散々抱かれてんのに?」

 勿論忘れるわけがない。なんせ初めてで何処が、とは言わないが裂けかけてると言ったのは間違いなく目の前の彼女で、経過を見てくれたのも彼女で、そして私の身を案じて悟くんに説教をしてくれたのも、彼女だった。
 硝子ちゃんの説教に「そんぐらい我慢してきたんだぞ!」と反発していた言葉にきっと偽りは無いのだろう。……多分。私と出会う前の女癖の悪さは噂に聞いてるだけに言い切れないのが、うん、悟くん屑。

「そもそもまだ分からないことばっかの術式じゃんか。無理に焦らず、まずは気持ちを整えることじゃない?」
「そーするぅ〜……有難う硝子ちゃん」

 再び右手に取ったマグカップが少し挙げられて、それが返事と解釈した私は保健室を後にする。気持ちを整える……私は今までどうやって正常を保っていたのか、忘れてしまったのかもしれない。そもそもこんなに落ち着かない、気持ちがぐらぐらと揺れた事がまずないかもしれない。どうしよう。どうしたらいいのだろう。少し歩いた廊下の端で、壁にもたれてずるずるとしゃがみ込んだ。
 もう、何も考えたくない。





 去っていった小さな背中に小さく溜め息を吐いた硝子はヒールを鳴らしながら窓辺に寄り、勢いよくカーテンを開く。やべ、と小さく漏れた声は窓縁下にしゃがみ込んでいたが、デカい図体がそうそう隠れ切れるはずも無く。

「おい盗聴犯、アレどーすんだよ」
「様子見。とりま家にこの事が伝わらない根回しはジジイがしてくれてたみたいだからさぁ」
「それはそれは。でもお前29才だけど?」
「言いたい事は分かるけどお前もそうだからな。あと御三家は若いうちにバンクにブチ込まれるから最悪問題ねーよ」
「うわー流石御三家、きしょい」





 僕は入れよ、と促されるままに窓際から保健室へと踏み入れる。多少の行儀の悪さはご愛嬌だ。淹れ直したであろう自身のマグカップに口をつけながら、こちらにマグカップとスティックシュガーを差し出す。本数は雑に掴んだ本数だろうから分からない。

「あの子、最近精神的に不安定だから、もしかしたら初潮来るとか、何らかの変化があると思うから注意して見てやって」
「硝子それマジで言ってる?」
「ズルして卒業早めてても勉強はサボってないけど?呪力に問題ないんだからそういう事でしょ」

 珍しく医者らしいことを言う硝子につい笑ってしまう。あんなに体術の授業とかサボってた奴の言う台詞かよ。僕の言えた事でも無いが。

「……まー、最悪五条家は名義だけ憂太とか恵に継がせてもいいかもなー。てか僕死なないからもう数十年は当主僕だし。」
「憂太はやめてやれ、胃に穴が開く」
「確かに言えてるかも」

 胃を抑えながら当主をやる憂太を想像して笑ったら思わぬツボにハマって笑いが止まらない。けどああ見えて案外やるべき事をきっちりやるから向いてると思うけどなぁ。そんなことを考えているといつも以上に刺さる視線を寄越す硝子に、何?と質問を投げかける。暫く沈黙が続いた後、呆れたような声色で、まるで願うかのような言葉が飛んできて思わず返事を忘れてしまった。

「死なないじゃなくてさ、ナマエの為にも死ぬ気で死ぬなよ。お前はもう死ねないんだ。それだけ大切なものを背負ってるってこと、忘れんなよ」

 私の親友は安くねーぞ、そうゆるりと笑う硝子は、渋谷の時をきっと思い返している。親友が前線で戦う中、貴重な治療要員として守られるばかりの自分。それがたまに嫌になると言っていた。お前に救われた命が幾つあったと思ってるんだと夜蛾学長は言ったらしいが、硝子はその言葉すら受け入れずに、「そんな言い訳で親友を救えないなら、私は大多数の命を捨ててでも駆けつければ良かったと後悔します」と返したらしい。
 僕のたった一人の親友が呪詛師となった日。あの日に多くの事が変わっていく中で、ナマエだけは変わらなかった。いつも通り振る舞い、いつも通り僕らに無償の愛を向けてくれていた。硝子もそれに救われていた一人なのだと、震え出した彼女の指先を見て痛感する。彼女は揺れるナマエを見守ることしか出来ず、しかし失うことが酷く恐ろしいのだ。だから、こうやって僕に向けて精いっぱいの本音を吐露したのだ。あの普段凛として表情を崩さないあの硝子が。

「頼むからナマエを助けてくれよ、五条」



祈りの星屑を掬い取る


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