祠が視界に入る手前で足を止めた。目を凝らしてみると、後一歩先に進んだ先は別世界だと気づいて思わず後退りスマホを取り出した。既に完成された其処は、近づいて漸く感知できる程高度な境界線だった。それだけで相当の呪霊が居ると分かる。しかもかなり緊急の対応を要する。これは撤退したところで恐らく特級の誰かが至急アサインされるだろう。或いは捨て駒として私、かもしれない。
 私は思考を一巡したのち、半ば諦めに近い気持ちで千紗ちゃんに電話をかける。万が一が起こるのは、私だけで、いい。

「こちら五条ナマエ、生徒を連れて急いで離れてください。それから一番近くの特級術師に至急連絡を。……後はお願い、城崎補助監督」





 一歩踏み込めば先程までの荒れきった山道は何処へやら、そこには整えられた石段とその先には社が見える。おそらくここにかつて存在したものが廃れてしまったのだろう。刀を握る手は緩めずに、一歩一歩石段を上がってゆく。感じる呪力から、おそらく剣技だけではかなりの消耗戦になる。これは術式を使うこともやむなしだろう。
 登りきった先には畳2畳分程の、小さいが立派な屋根のついた社殿。本当に嫌な任務ばかり当たるな、とうんざりしながらも社殿の入り口を見つめる。本来ならあり得ない、剥き出しの襖は僅かに開いており、その隙間からは光が漏れている。息を呑んで襖を勢い良く開けると、景色は一変して昼間の空から夕焼けへと変わり、視界の先には仰々しく頭を伏せているこの空間の主。これはおそらく意思疎通が図れるレベルまで成長してしまった呪霊だろう。或いは土地神様が呪霊化してしまったケースだろうか。

「ヌシ、何用じゃ。用がない者は立ち去れ」

 突然かけられた声に思わず目を見開く。今なんて言った?立ち去れ?呪霊が?そういえば刀身がピクリとも動いていない事に気づいて私は面を上げた。視線の先、猫目の少女は此方を窺っている。

「貴方は土地神様ですか?」
「そんな大層なモノではない、生憎な。妾は我慢強い方ではない。命惜しくばはようこの場を去ってはくれぬか」

 再び伏せられた顔。言葉尻は震えていて、怯えや悲しみを感じさせた。成る程、と理解した私は、刀を鞘に納めて鞄から水筒を取り出した。

「私は喰われる程弱い人間じゃありません。とりあえずお茶、どーですか?」





「懐かしい香りじゃ。もう何百年も嗅いでいない、春の香りじゃな。これは……桜か」
「分かります?良い香りですよねぇ。現代はそういった香り付けされた茶葉がたくさんあるんです」
「ほう、それはなんと興味深い」

 しげしげと器のなかの新緑を見つめる姿は、見る人によっては人間と紛うこともあるだろう。しかし彼女は紛れもない呪霊だ。但し、この場に於いては辛うじて理性を保てるのだろう。それは彼女が嘗てこの土地に生贄とされたら術式を持つ少女だったからだろう。いつだったか、七海くんと遭遇した少女を思い出す。彼女はここまでではなかったから祓う事ができたが、今目の前にいる彼女はそう簡単にはいかないだろう。

「貴方は、自分が呪霊に堕ちると気づいて、自らを封じたんですね」
「そうじゃ。いつかこの地に足を踏み入れられる者が来た時に、この身を祓われるまでと。まさかお主のような者がいたとはな」

 私は苦笑混じりに眉を顰めることしか出来ない。おそらく悠仁くん達は彼女の結界に阻まれて、領域の中に踏み込むことは出来ないだろう。私がここまで入り込めてしまったのは事故のようなものだった。私の術式が彼女の結界を、一時的に無効化してしまったのだ。

「なんとも愉快じゃ!数百年ぶりに来た者が妾の知らぬ術式で入ってきたと思えば、こうして縁側で茶をしておる。妾を祓う事もせず、現代の事を話して聞かせるとは……まあ、お主の気持ちも分からぬでもないがな」

 伏せられた目元で睫毛が震えている。私の過去を既に聞いていた彼女は「同類じゃな」と零した。もし私が正道に迎えられていなければ、いつか彼女達のようになっていたかもしれない。どの時代も、何故こんなにも残酷な末路を辿る少女の存在が絶えないのだろうか。ひとつ目の前の彼女が救いなのは、己の結界術によって人を殺めてしまう前に封じ込めることが出来たことだろうか。いや、理性残るままに変わらぬ時間を過ごす方が辛いだろうか。私には分からないし、きっと彼女自身も分からない。
 ここは領域内、彼女が時間を止めた時のまま、四季が巡ることはない。切り取られた風景は冬を迎える目前の秋色に染まっていて、夕焼けも相まって紅一色である。

「扨、主に伝えておきたい事がある。聞け」
「何でしょう?」
「此処より更に奥地に墓がひとつある。どうかそこにある骨を燃やしてはくれぬか?母の遺骨なのじゃ」
「お母様の……」
「それから、主は間違っても妾のようになるな。絶対に」

 そう言って少女は緩慢な動作で縁側から腰を上げて数歩前へと進む。ああ、来たのか、迎えが。見慣れた呪力を感じて私もその場から腰を上げた。紅色の中に一人立つ蒼は、柔らかい空気を纏って此方に近づいてくる。少女の前に立ったところで、「ウチの嫁さんがお世話になりました」なんてちょけたことを言うので、振り返った彼女に「此奴で大丈夫そうか?」と聞かれてしまった。思わず吹き出してから、安心してくれと伝える。なんせ彼は現代最強の呪術師なのだから。

「何々、仲良しなの?」
「仮にも祀られてた方と仲良し発言は失礼かと」
「構わぬ、主の話は大層愉快であった。最後に名を聞かせてはくれぬか?」
「……ナマエ、五条ナマエです」
「なんと、御三家に嫁いだ者だったか」

 妾の分も幸せになれ。一度は目を瞬かせたが、悟くんに向き直る数瞬だけ微笑んだ彼女は、無下限のなか跡形もなく消えていった。周囲の景色に鮮やかな紅はもう何処にも存在しない。随分と時間が経っていたのか、夜空には綺麗に星が瞬いている。彼女の残した言葉通り、遺骨を回収して私たちは補助監督との待ち合わせ場所に向けて山道を下っていった。

「ちゃんと待ってるとは思わなかったよ」
「なにが?」
「無理して祓うかと思って。ナマエ、術式でもちょっとキツかったろ」
「そうだねぇ……そもそも祓う気なかったから」
「また呪霊化した贄嫌いしてたの?お前」
「違う違う、この子に怒られるからだよ」

 この子、と言って指したのは愛刀である。結界に入ってからはすっかり大人しかったこの子。刀を見るや否や久しいな、と言ったのは先程祓った彼女だった。元々は彼女の思い人が打った刀で、当時は刀鍛冶としても名が通っていたらしい。しかし、彼女と深い仲だった刀鍛冶は彼女が贄になると知った時に自ら命を絶ったのだという。それを呪いだなんだと騒ぎ立てた者達が、彼の存在をなかったものにしたのだという。唯一、彼女に代わり彼女の母が託されたこの刀一振りを除いては。その言葉に、刀に関する資料ひとつ出てこなかったことに納得した。意図的に消されたのなら出て来るはずもない。

『まさか……春の香りと共に再会できるとは、なんと良き日じゃ』

 彼女の残した言葉を思い出し、そっと刀身を撫でた。やっと名で読んでやれる愛刀を、大切に大切に、彼女の分も慈しむように撫でた。大切な人に贈るために作られた名刀は、その後彼女の母が亡くなるまで、まるで娘代わりとでもいうように大切にされた。そうして何百年もの時を経て、主と似た過去を持つ私と出会い、そして今日ようやっと本来の主に再会する事が叶い、かけられた言葉。それは付喪神にもなるか、と納得する他なかった。

「多分私が無理にでも祓うもんなら、バッサリ切られてたと思うなぁ。ね、名刀櫻吹雪?」
「何?そんな大層な名前だったのコイツ」

 相変わらず仲が悪い悟くんに刀身は怒りを露わにしてカタカタと袋の中から音を立てている。抑制する術のかかった袋の中で威嚇とは、相当ご立腹のようだ。むき身だったら容赦なくどついていただろう。感情豊かなのだ、うちの子は。

「刀鍛冶本人とさっきの彼女の名前を合わせてつけられた名前だから怒ってるよ」
「へーぇ、その刀鍛冶もロマンチックな事するじゃん」
「その感想、多分伝わらないと思うよ」

 あの当時にロマンチックなんて言葉は無い。ならばどんな表現なら伝わったかな。時を越えた出会いは、私に幾つかの教えを残して消えていった。偶然ではなく必然の出会いだったと、なんともオカルトなことを信じている私がいた。

「私運命論とか信じないタチだけどさ、今日だけは信じてもいいなって思ったよ」

 そう言った私を見下ろす彼は、少しだけ微笑んで、そっか、とだけ言葉にした。喧しかった刀身はいつの間にか眠りについたのか、すっかり静まり返っていた。



今日は運命論を信じてみてもいいよ


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