そのうち来るだろうと思っていた瞬間は、想像よりも早く訪れた。私は社交辞令の挨拶だけして、あとはひたすらノーと繰り返すだけになるであろうこの後の会話に辟易している。
 上層部から呼び出しがあったのは昨日のこと。何故私だけなのか、僕も付いていくと散々駄々を捏ねた悟くんだったが、無理なものは無理だと分かってはいるようで、ひと通り騒いだら学長室のソファからだらしなくずり落ちていった。

「ナマエはなんで呼ばれてるか予想ついてんの?」
「うん、思ってたより早いけどねぇ」
「何かしてやれることはあるか?」
「そーんな怖い顔しないで正道、大丈夫だよ」

 私が時期星漿体ないし天元様の位置に据えられるかもしれない。そんな噂がごくごく一部に漏れ出していた。もちろんこの場にいる正道も例外ではないし、悟くんなんて言うまでもない。

「暫くは"嫌がらせ"が続くかもしれないから、それだけ謝っておくね、ごめん正道」
「お前を守れないなんて、不甲斐ない父だな」
「学長ーナマエができない事をやれるのがその席なんじゃないんですかー?」
「悟くんの言う通りだよ」

 ふぅ、と重い息を吐いた正道はそっと私の手を握って目を瞑る。幼女姿から少女まで成長した私でも未だ、この手に握られると頼りなく見えてしまう己の手にくすり、と笑ってしまう。正道は分かっていない。初めて出会ったあの日、この手を引いてくれた事だけでどれだけ私が救われ、幸せになったのかを。あの時私を見つけてくれたのが正道でなければ、きっと私は呪術師に祓われる存在に成り果てていただろう。だから、充分守ってもらったと思っている。
 そもそも正道が私を見つけ、悩みながらも選択し続けてくれたから、今此処にいる。悟くんや硝子ちゃんに出会い夏油くんとは悲しい別れをしたけれど、きちんと立ち直る力をつけてくれていた。憂太や悠仁くん達にだって出会うことができた。それで充分だ。

「帰ってきたら一緒にお茶にしよう、あの刀の主のお墨付きだよ」

 私は扉が閉まり切るまで努めて笑顔を崩さなかった。





「………いま、なんと仰いましたか?」

 予想通りにことが進まないことなんて、人間を相手にする以上いくらでもある。それでも、この場で起こっていることは寝耳に水、とでも言おうか。予想を遥かに超えた内容で、嫌な汗が背中を伝う。もちろん焦りや緊張は表に出さず、何を馬鹿な事を、というイントネーションで発した。そう出来ていたらいい。

『お前が身籠れない身体なのは分かっている。このまま五条家をお取り潰しにさせる気か?』
「それは私ではなく当主がお決めになる事です」
『彼奴は言って側女を作る奴では無い。かといってお主に子どもを"作らせる"こともしないし、それは我々も困る』

『次期天元様の席か五条家存続か、猶予をやるから決めろ……夜蛾ナマエ』

"学長ーナマエができない事をやれるのがその席なんじゃないんですかー?"

 何故か思い出していた悟くんの言葉が、妙に刺さって、痛かった。私にしか出来ない選択を、迫られている。それも何方も選びようのない選択肢。私は縛りを受けないよう、投げられられた言葉には何も返さずその場を後にした。





 緊急で入った任務を2件片付けて高専に戻る頃には日がすっかり落ちていた。急だったのにすみません、快諾有難う御座いました、とお辞儀をするのは伊地知くんだ。寧ろ急な呪霊発生にも速やかに対応している伊地知くんに、こちらは感謝こそすれ謝られることなんて何もない。だって私は仕事を全うしただけなのだから。そう、思ったままを伝えれば、伊地知くんは「全員が全員快くって訳ではないので……」と漏らす。あ、その中の一人うちの旦那さんですよね、ていうか8割ぐらいは余裕で脳内に浮かんでるのそうだよね、本当にごめんね。フロントミラー越しにそんなやりとりをしていると、ふと迷った様な声で呼ばれたので、急かすことはせず続きを待つ。

「あの……気のせいだったら恐縮ですが、お気分、あまり宜しくないですか?」
「え?ああ、上層部と話した後だからじゃない?彼処の空気嫌いなんだよねぇ」
「いや、というか、真っ青、です……」

 赤信号で止まったタイミングで今一度振り返って私の顔を覗き込んだ伊地知くんは、何か確信をしたのか、スピーカーで電話をかけ始めた。ディスプレイには家入硝子の文字。程良い疲れと車の揺れ、それから温かさも相まって眠気に包まれていた私は、どんな会話が展開されているか上手く聞き取れなかった。ただ、そこまで焦っていない様子から、事前に硝子ちゃんから申しつけられていた事があるのだろう。くあ、とあくびをしてから、高専までの30分、一眠りしてしまおうとすっかり重くなった瞼を閉じた。

 次に目を開いた時には保健室のベッドに寝かせられていて、硝子ちゃん向きの箇所だけカーテンが開かれていた。私が起きあがろうとしたのをすぐに気づいた硝子ちゃんが今は寝てろと言うので、私は起こしかけた上半身をベッドにおろして横になる。どうして、と訊ねようにも、彼女の視線はモノクロのフィルム写真に向けられていて、その顔は酷く深刻そうだったから上手く言葉が出てこなかった。一体誰のフィルムだったのだろう。

「とりあえず五条の奴が来たら一緒に話すわ。今は寝てな。眠いでしょ」

 眠気に逆らおうと足掻くけれど、彼女の冷え性を感じさせる細白い手のひらで目を覆われて仕舞えば、私は再び夢の中へと落ちていった。

「こりゃあどうしたモンかねぇ……」

 そんな風に頭を悩ませる硝子ちゃんの言葉は、すっかり深い眠りに落ちていた私に届くことはなかった。



音無く近づく瞬き


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