「ナマエさんこんにちは」
「あら遊真くん、こんにちは。今日も個人戦?」
「そうそう、この後カゲ先輩と約束してるんだ。ナマエさんは今日忙しいの?」
つい先日も聞いた声に私は振り返る。ガタン、と自販機から軽快な音が立ったので、手探りにペットボトルを取り上げながら視線だけは遊真くんに向けた。忙しいか、と訊かれれば答えはノーだ。この後忍田さんからお呼びがかかっている以外は何も予定は入れていない。念の為手帳を確認した。昨今はスマホで済むけれど、私はどうにもおちつかないので、紙の手帳を持ち歩いていた。形として目の前にあるだけで、安心感が段違いなのだ。
私は愛用の手帳をぺらぺらと捲る。マンスリーにもウィークリーにも、忍田さんとの約束しか書かれていなかった。改めて今日の予定を伝えると、遊真くんは大層嬉しそうに顔を綻ばせた。
「月曜日のピザのお礼するから夕飯玉狛来れるか?って迅さんが
「訊いてくるよう言ったのは迅だけど、お礼する人は小南ちゃんね?」
「すごいナマエさん、大当たり」
月曜日は玉狛支部の隊員が勢揃いだった。あの日、私を迎えに来た迅は悪いね、と悪びれる様子なく言って来たので、思い切り脛を蹴ってやった。トリオン体のくせに痛がるからじとり、と睨んでやったが、予約しておいたピザは大量に積み上げられ、迅が来てくれたのはこれを持つためだなと納得した所で、なんだかんだ言って迅はこういうやつだったな、と一人ごちる。
会計は迅を制して私が支払った。玉狛支部には久しく顔を出せていなかったし、お邪魔する以上これくらいはさせて欲しかった。困った様に下がり眉になった迅にこういうことは気にするの?と茶化してやれば、林藤さんに知れたら怒られると言う。苦言をひとつふたつ貰うことはあっても、怒られることは無いと知ってるから、結局最後までお金は受け取らなかった。
用事をひと通り済ませた私は、遊真くんのいる個人戦ブースへと赴いた。危うく太刀川さんに捕まりかけたのをなんとか躱して遊真くんに呼びかける。
はじめこそ一悶着あったものの、今ではすっかり馴染んだ遊真くん。迅の詰め将棋は今回もうまく進んだようで、無事ボーダーのいち隊員として在籍している。
今日はカゲくんと約束があると言ってた筈だが、彼の周りにはボーダー屈指のアタッカーが勢揃いしていて、昔の自分もこうやって模擬戦ばかりしていたなぁなんて感慨深く感じた。
「あ?ナマエじゃねーか」
「カゲくんやほ。今日はどっちが勝ち越したの?」
訊けば満面の笑みで缶ジュースを掲げてみせるカゲくん。今日はカゲくんに軍牌が挙がったようだ。
「お前偶にはウチにも来いよ。最近ボーダーの奴らとよく集まるんだよ」
「あーお好み焼き……でもお邪魔じゃない?」
「誰もそんなふうに言わないよ」
俺より知ってるでしょ、と見上げる遊真くんの瞳が少し痛い。優しい子達なのは分かっているのだけれど、流石に高校生に混じってはしゃげる年齢はとうに通り過ぎていた。たったひとつ、されどひとつ。私には些かハードルが高すぎた。そんな私の気持ちを察してか、カゲくんにチョップを頂戴した。私今生身だから加減して。痛い。
「ナマエさんって、迅さんと同い年なんだっけ?」
「うん、私は無職じゃないけどね」
「何?今日攻撃的だねナマエ」
実力派エリートは不服だと声を上げたが、私は笑顔で迅の手からスプーンをひったくる。食事中にスプーンで人を指しちゃいけません、と言えば小さくすいません……と聞こえたのでスプーンは返してあげた。久々の小南カレーは矢張り美味しかった。知ってる味に心から安心したのは、一人で食事を済ますことの方が多いからかもしれない。
「ねぇナマエ!これ食べて良いの?!」
「あ、切り分けてあげるからちょっと待ってー」
「早く早く!」
手土産に持って来たのはホールで買ったタルト。玉狛支部に来る途中、行きつけのお店で遊真くんに選んでもらった。ナマエさん自分で選ばないの?と訊かれたが、それよりも遊真くんに新しい味を知って欲しかったから、直感で選んでもらう方がいいと伝えたら、それならと揚々とタルトを選んでくれた。選んだのはフルーツタルトだった。
旧ボーダー本部であるこの場所は、かつて私にとって帰る場所であった。だからキッチンの扱いも慣れたもので、身体にはきちんと此処で過ごした時間が刻まれていた。いつもの場所から包丁を取り出して、出来るだけフルーツが均一に乗るようにアタリをつけて刃を入れる。お皿に分けていくと無邪気な小南ちゃん達がテーブルへと運んでくれたので、今不在の鳥丸くんとレイジさんの分はラップをかけて冷蔵庫へ。
「ナマエほんと此処のタルト好きだよね。昔誕生日会の時もタルトじゃなかった?」
「いいじゃない、タルト。ケーキも美味しいけど」
「えっ、ナマエさんって玉狛の人だったの?」
「正確には旧ボーダーの人だね」
ふうん、とまだ何か訊きたげな様子で此方を見つめる遊真くんだが、少なくとも今聞くことではないと思ったのだろう。言葉はタルトごと口の中に消えていった。
ふともう一人別の視線に気づいてどうかしたのか訊ねた。うん、といううわの空な返事。あぁ、視ているのか、と思って特別続きを急かすことはしなかった。暫く唸ってから、迅は最近やたら見る困り顔で「今日は泊まっていった方がいいよ」とだけ残して自室に引っ込んでしまった。もちろんタルトのお皿は忘れずに。彼の部屋の場所は昔と変わらないのだな、とぼんやり眺めながら、言葉の真意を模索していた。泊まらなかったら、何が起こるのだろう。
「……ナマエさんってさ、迅さんの言葉は絶対信じないよね」
遊真くんは質問のような事実確認を私に寄越した。半分当たりで半分はずれだよ。そんな返事はタルトと一緒に飲み込んだ。私の周りは目まぐるしく変化した中で、今も昔もここのタルトの味だけは不変だったことを、どうにも私は喜ぶことが出来ないでいる。