早朝の空気はひんやりとしていて、少しだけ私の肌を震わせた。いつもならジョギングをしている時間だが、今日はのんびり川沿いを歩いている。
 昨夜玉狛支部に泊まったので、手元にはジャージが無い。着替えはワンセットだけ常に置いてあるから問題無かった。置いてあるというよりは、いつ何があっても良いようにとワンセット常に強奪されている。主に小南ちゃんに。あとウチの合鍵を簡単に貸してしまう林藤さんもか。何があっても良いようにって、逆に何があったら玉狛支部に強制お泊まりになるのだろうか。謎だ。
 (来ない間に随分変わったな……)
 ざり、と砂利を踏む音が響く。早朝、この辺りは人通りが少なく、けれど少し大通りに出ればさも当然のように生活を送る人々が行き交っていた。当たり前なんて、存在しないのに。


君と揺蕩う木曜日



「おかえりナマエ。朝から精が出るね」
「おはよ迅、おかえりは違くない?」
「おかえりはおかえりだよ」

 迅は時々変な所で譲らない。此処はもう私の家では無いのに、さもそれが当たり前だとでも言いたげに私に「ただいま」を求めた。素直に言ってやらないのだから、私も大概か。
 玄関から洗面所、それからキッチンまで、アヒルの子よろしく付いてくる迅は、否が応でも私にただいまと言わせたいらしい。これはさっさと別の話題にシフトしてしまうのが早いなと思考をくるくると回した。

「朝ごはん何作ろうかなぁ」
「え、ナマエ作んの」
「え、駄目?」
「いや駄目じゃない、けど」

 君の目には見えてただろう。そう言おうとして開いた口を、私はそっと閉じた。そして再び開いた口は、ぶっきらぼうに何が食べたいかを聞く。隣の19歳児は、パンケーキを所望しているので卵の数を確認する。うん、ある。目視だけで個数を数えていたら、隣からは何処か楽しそうな声が聞こえた。

「卵なら足りるよ。俺のサイドエフェクトがそう言ってる」

 チラリと視線を向けると、楽しそうとも嬉しそうとも取れる表情の迅がいた。彼の言葉には何も返さず、駄目押しの指差し確認で卵の数を確認してやった。





「迅さんって、ナマエさんと仲悪いの?」
「……なに、遊真反抗期?」
「質問に答えられないんだ?」

 ふうん、と洩らした遊真を視線だけ向けて伺う。昨日聞いた言葉と一字一句同じだったのに、ニュアンスが全く違っていて大変楽しそうであった。
 彼の前には真っ白なお皿の上にふんわりとしたパンケーキが数枚、綺麗な焼け目のついたそれが積まれていて、ハニーシロップの甘ったるい香りが届く。焼き上がってからそれなりに時間は経っていたけれど、冷めても美味しいのは俺が保証する。これはサイドエフェクト云々ではなく、俺の舌が何度も経験してきた事だった。

「仲悪くないよ、人生の半分以上はあいつと過ごしたようなモンだからね」
「迅さんは、ナマエさんのこと好きでしょ」

 迅さん『は』。そのたった一文字に揺さぶられてはいけない。遊真には嘘がつけない。嘘にならない様に言い回しを考えなければならないから、たまに面倒くさく感じるなんて、口が裂けても言えなかった。

「俺は、好きだよ」

 ナマエの気持ちは知らないけれど。知ったところで、此処から離れてしまった彼女がどうこうさせてくれない気がした。だから、変な期待をせずやりたいように接する方が楽だった。いつか彼女を切り捨てなきゃいけない日が来た時に、少しでも辛くない様に、期待して手を伸ばすのを諦めた。それだけだ。

「迅さん、つまんないウソつくね」
「嘘なんかじゃないさ、見えるだろ?」
「俺のチカラは万能じゃないよ。迅さんなら分かると思うけど」
「……やっぱり遊真、反抗期?」
「俺ナマエさん好きだから、迅さんの肩は持たないよ」

 そこは俺じゃないのか、と思った。同じ基地のよしみで。でも確かに振り返ってみれば、遊真はずいぶんナマエに懐いていたなとも思った。





「熊谷ちゃん、私で良いの?」
「ナマエさんが良いんです!」

 玉狛から本部に赴いた私は、紙カップのミルクティーでささやかな暖を取りながら、パソコンとノート、それからタブレットの間で視線を忙しなく動かして黙々と作業をしていた。家でやってもよかったが、往来の時間を考えたら本部でやる方が無駄がない気がして4人席を一人陣取っていた。この時間、本部待機をする人は少ないから許して欲しい。やっと一区切りついたところでパソコンを閉じたら、視界の中に熊谷ちゃんが飛び込んで驚いた。いつから座ってたの、と聞いたら「すごい集中力ですね」とはぐらかされてしまった。そして、先のやり取りに至る。

「次の予定まで空いてるから別に良いけど、それこそ太刀川さんとかの方が良いんじゃない?」
「あーまぁ……今朝も居ましたけど」
「あの人単位に自分から振られにいってるよね。良い反面教師だよね」
「笑顔でとんでもない事言いますねナマエさん……」

 女の子で前衛をやってる子はいない訳ではないが、上位に食い込む子で、となると確かに少ないなぁと思いながら、私なんかに指導を頼むとは中々藁をも掴むなんとやら、である。

「指導なんて烏滸がましい事出来ないけど、感想言うくらいならまぁ、出来るかな?」
「やった!」

 バックパックに荷物を詰めて、熊谷ちゃんと個人戦ブースへと向かった。熊谷ちゃんの言った通り、個人戦ブースには太刀川さんがいた。大きな身体全身を使って欠伸をする姿は、どこかの山から降りて来た熊を思わせる。

「ヒグマいる……」
「ははは、それ俺じゃねーよな?」
「ヒグマに失礼だからこの話は無しで」
「お前俺にアタリ強くね?」

 それは個人戦やろうってしつこいし、一戦だけって言って結局一戦で終わらないからです。そんな事を思いながら笑顔でスルーした。お前らやるやら俺もーと言う太刀川さんを無視して、ポケットの中のトリガーを確認しながら、熊谷ちゃんとの模擬戦に向かった。





 熊谷ちゃんは普段那須ちゃんのフォローをする事が多いので、あまり詰めてくるイメージが無い。それでも弧月使いなので、ある程度立ち回りは絞られてくる。思わず斬り込みたくなる様な隙をわざとみせて誘えば、熊谷ちゃんは素直に食い付いてくれる。こういう時は多少性格が悪くないと生き残れないぞ。思い切り踏み込んだ熊谷ちゃんに一太刀。綺麗に上半身と下半身がサヨナラしたところで、悔しそうな熊谷ちゃんがベイルアウトした。
 その後も何戦かしてから、思ったことを伝えると、自覚のある点もあったらしく、うぐ、と顔を顰めていた。

「でも三戦目のくまの弧月を奪って刺すのはヤバいな、人間やめてる」
「太刀川さんさっきのこと根に持ってます?」
「ははは、どっちだと思う?」

 何も考えてないが正解だな。太刀川さんはあれこれ考えて行動するタイプではない。戦闘スタイルも日頃の行いも。

「三戦目のアレは私もびっくりしました!なんなんですかアレ?!」
「合気道の応用だよ、そんな大層なものじゃないの」
「ほー、合気道ねぇ」

 興味深そうに此方を見ている太刀川さんは、やっぱり何も考えてなさそうだった。興味があるのは本当だろうけど。これは私に戦いを指南した人の受け売りだけれど、人間、咄嗟に取れる行動は身体に染みついた一手だけ。どれだけトリガーが素晴らしいものでも、結局戦争の時は敵もまたトリガー使いなのだ。他で補わなければ競り負けることもある。その為の日頃の走り込み、というわけだ。

「弧月は形が決まってる分、体術に理解があるかどうかで大分出来る手数が増えると思うよ。さっきのだって、自分が必ずしも手元に武器があるとは限らないから、そういう時に対応出来るから覚えておいて損はないと思うかな?」
「早速練習してみます。形になったらまた相手してもらえますか?ナマエさん」

 もちろん喜んで。花がパッと咲いた様な笑顔が抱きついて来る。熊谷ちゃん身長高いなぁ……なんて思いながら、改めてボーダーの向上心の高さに感動した。

「そういえばお前さ、いつから弧月左利きになったの?」

 サッと血の気が引いた。抱きついたままはしゃいでいた熊谷ちゃんはピタリと止まって私を見つめている。私は動揺が悟られない様に淡々と「両利きですよ私」と答えた。嘘ではない。気不味い沈黙に耐えかねた私は「そういえば、」と言葉を続けた。

「こないだ忍田さんに呼び出された時、太刀川さんの様子聞かれたんですけど、単位取れそうですか」
「おれようじおもいだした大学行ってくるははは」

 太刀川さんは逃げ足もAクラスだった。熊谷ちゃんは未だ不思議そうだったが、私があまり触れてほしくないことを気遣ってくれたのか、何も聞かずに笑ってくれた。左ポケットに入れたトリガーをそっと撫でた。決して嘘はついてない、でも本当かと言われるとちょっと違う。右ポケットのトリガーも握りしめる。私の両手にはひとつずつトリガーが入っている。ひとつは白、ひとつは黒の。視線を爪先へと落としてごめんね、と誰に向けるでもなく零す。私は申し訳なさで少しだけ、息苦しかった。

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