カツン、カツン、とゆっくりとした足取りで屋上に続く階段を登っていく。手元のマグカップからは未だココアの湯気が立っていた。私はどこか緊張しているのか、震える指先でノブをゆっくり回す。
「ああナマエ、荷解きは?」
「馬鹿。こんな時間にやらないよ。」
「うん知ってた」
手すりに寄りかかる迅は楽しそうにけらけらと笑っている。視えてたくせに、わざわざ聞かないでほしい。そんな回りくどいことしなくても雑談ぐらいしてやるのに。ため息は堪えて、代わりにマグカップの熱気を覚ますよう息を吹きかけた。
「ねぇ迅、どこから視えてたの」
それは単純な疑問だった。色んな疑問があったけれど、やっぱり一番は私が玉狛もとい旧ボーダー基地に帰ってくる事だ。
「可能性として視えてたのは否定しない。でも、ずっと安定しなかったから、言えなかった」
「安定?」
「真反対の結果が、同じくらいの確率だったのかな。ずっとぐらぐらしてた。でも分岐が何処だったのか、俺には分からなかった」
迅の未来視は完璧じゃない。会った事のない人の未来は見えないし、知り合いでも顔を合わせてなければ視えない。私が玉狛に"帰る"要因のひとつは先の戦闘結果だろう。では、それ以外の要因は、何だったのだろう。特別大きな出来事もなければ、日常から逸脱したこともなかった。んん?と考え込む私を見て迅は語りかけるように口を開く。
「ナマエはさ、俺の邪魔をしない為に離れるとか、俺の穴抜けを埋める為に立ち回るとか言うけどさ。俺そんなこと頼んだこと一度もないよね?」
「まあ、私が勝手にやってることだから」
「傍にいてくれるのが一番助かるって言ったら、お前どーしてた?」
「は、?」
落としかけたマグカップを私の掌ごと拾い上げてしまう迅の手は、すっかり男の人の手だった。つとめて落ち着いた様子で話す彼だが、耳まで赤いので全く格好がついていない。ふふ、と我慢しきれなかった笑いが漏れると、ムッとした彼は手を掴んだまま、私とは反対側に口をつけてココアを啜った。上唇を舐めとる仕草が妙に色っぽくて、私は釘付けになっていたことを誤魔化すように私もココアを啜った。
「あま、」
「ナマエ、自分でココアにしたんでしょ?」
「だってこんな時間にカフェイン取ったら明日に響くし……」
「あれ、迅さんもナマエさんもまだ起きてたの?」
「あれ、遊真くん。いい夜だね」
ひょこりと現れた遊真にぱっと笑顔を向けられて、2人で座っていたベンチを詰めて、空席に座るよう促す。迅はどこかつまらなそうな顔をしていたけれど、わざわざ避けることはしなかったのだろう。分かってました、と顔にハッキリと書いてあった。遊真くんはそんな迅をみて、ニンマリと私にはあまり見せない悪い顔をしている。
「これからは私玉狛居るから、お喋り出来る機会が増えるね」
「俺、それよりもまたナマエさんとピザ?を食べられるのが楽しみだよ」
パンケーキも俺すきだな、と言った遊真くんの表情は、打算も何もない。とても私よりも戦争に触れてきた子とは思えないあどけなさがあった。私が必死に守ってきた線引きは、結局何の意味も無かったのだと否定されたような気がした。事実そうなのだと、心の奥底では分かっていたのだけれど。私はそう思い込む事でしか、自分だけ残されたことに理由をつけられなかった。
「ふふ、そう言ってもらえると、朝ごはんの為に早く寝なきゃって思っちゃう」
「……ナマエさんいつもそうだけど、俺相手につまんない見栄はるのやめなよ」
寝るの怖いくせに。それだけ残して去っていく遊真くんに、わざわざそれを言う為だけに来たのかと問いたくなったが、反対隣から感じる気配に私は口を一文字に閉じることしかできなかった。
「なんで怖いの?寝るの」
「……怖い夢見るから、です」
「はい、未来確定でーす」
なにが、なんて聞くまでもなかった。いたずらっ子じみた表情で私の手を引き屋上を後にした迅は、私の部屋をスルーして、彼自身の部屋へと連行する。
仮にも19前後の異性同士が同室にこんな時間。その辺りは間違えない自信があるが、外聞は良くないだろう。それでも「私が迅の部屋で寝る未来」に迅自身が持っていきたかったのだろう。いつの間運んだのやら、私の敷き布団は当然のように迅の部屋に居座っていた。……これ明日ぼんち揚の雪崩で死なないかな私。
「俺も明日の朝ごはんパンケーキが良いなぁ。ナマエの作った薄めのやつ。数枚重ねの」
「前来た時と同じじゃん」
「何回食べてもいーじゃん、好きなんだよ」
「じゃあ卵の個数足りるか確認しなきゃ」
「足りなくてもいいよーに、朝方帰ってくるレイジさんにコンビニの卵お使い頼んである。気にせず寝なよ」
寝る時に誰かの温もりがそばにあるの、何年振りだろう。明日の約束をしてから眠れるなんて、いつ振りだろう。
迅が未来視に頼らず大丈夫だと言ってくれたのはいつ振りだろう。まあ未来視に関しては頼ってないていを装ってるのかもしれないけど、私にはその言葉選びで充分だった。
この国が大きな被害を受けるたびに人一倍傷つく彼に、何が出来るかを考えてきた。それは敬愛とも家族愛とも、恋愛とも呼べる。正直愛の種類なんて私はどーでもよくて、大切にしたい気持ちが確固たるものならそれで良かった。
彼が読み逃したりイレギュラーが発生した時、少しでも彼の手となり足となって立ち回れる、それくらい強くなろうと決めた。強くなればなるほど、命の取捨選択を迫られる場面が多いから、私の死に際を視せないように迅から距離を置いた。そして本部からも距離を置いたのは、私が拠り所があることで心の隙が出来てしまわぬようにだった。少しでも強く、時に非情な判断を下せることが、私の誠意であり、父の死後も見守ってくれたみんなへの恩返しだと思っていた。
それは全て私の思い込みだったのだと、迅の言葉で悟った。
力が強いほど未来の分岐への影響力があり、影響力がある程ブレてはいけないのだ。私に必要なのは、全て真逆のことだったのだ。未来視が少しでも安定するように、心安らげる場所を居場所として受け止めることが必要だったのだ。どうせ死なないなら顔をつき合わせて未来を見せる事も気負う必要はなかったのだ。
「ナマエはさ、何であの時黒トリガーを使わなかったんだ?お前は特別制約を受けてないだろ?」
そう訊かれた私は、枕元に置いてあった黒トリガーを手に取る。掌に収まる、規格トリガーより二回りほど小さなトリガーは、当時の幼かった私に合わせて小さな大きなになったのだろう。
確かにこれはかつて兄だった存在だ。でも、もう兄じゃない。兄は正しく死んだのだ。トリガーに残ったのは魂ではなく、幼かった私を守り抜かんとする強い意志だけだった。
あの戦いで私は、黒トリガーを使わなかったのではない。あえてボーダー規格のトリガーを選んだのだ。何故なら私は、私の根っこが近界民だろうと何だろうと、あの瞬間私はボーダーの一員として戦っていたのだから。
「んー……決意の表れってやつ?」
「何だそれ」
ふは、と笑いを漏らした迅は、ベッドから掛け布団だけ引き摺り下ろして私の隣に転がった。どうやら今日はとことん私に付き合ってくれるらしい。背中に回された腕は優しいリズムで私を眠りに導こうとしている。私はそれに一才逆らうことなく、ふわふわとし始めた意識をゆっくりと手放した。
「おやすみナマエ、明日のパンケーキ楽しみにしてる」