目が覚めてもまだ残る微睡みにもう一度沈んでしまおうかと隣の温もりを求めて手を伸ばす。けれど、そこにある筈の温もりを俺の手が掴むことは無く、一気に脳が覚醒した。人のいた痕跡はあるのに、姿が見えないだけで無性に不安に駆られた。俺は慌てて部屋を転がり出てリビングへと向かう。久々の生身で身体が思うように動かない。


君といきする月曜日


「あれ?迅おはよう、顔洗ってきなよ」
「………おは、よう?」

 何その顔、とふくふく笑う彼女は、まるで日常に溶け込むようにキッチンに立っていた。しゃんとした背筋に使い込まれたカフェエプロン。キッチンカウンター越しの遊真の話に相槌を打つが、手元は迷いなくパンケーキの焼く準備を進めていた。
 彼女が居ることを確認して、俺は長い溜め息を吐きながら洗面台に向かう。近日稀に見る腑抜け顔だと我ながら思う。それぐらいの衝撃があったのだ。なんせ彼女が最初に此処を去った時も、俺が眠っている間の出来事だったのだから。

「……そんなシャツ売ってるの?オーダー?」
「お前も着る?実力派エリートシャツ」
「絶対やだ」

 べ、と舌を出したナマエは、自身の荷物から引っ張り出したホットプレートをテーブルの上で温めていた。覗き込みたがる陽太郎に触っちゃダメだよ、と言いながら抱き抱えて見せている。

「お好み焼きみたいだな」
「タネ作ればお好み焼きも出来るよ。カゲくんちみたいなお店の鉄板には劣るけどねぇ」
「でもいつでも作れるのはいいな!」

 好奇心が抑えられない遊真もまた、陽太郎と同じく注意されていた。彼の場合トリオン体ではあるけれど、それでも身体を大切にしてほしいのだろう。彼女らしい。ようやくいい温度になったプレートに、陽太郎を抱き抱えながらも器用にパンケーキの生地を落としていく。ふつふつと呼吸する生地を魅入るように陽太郎と遊真は見つめていた。

「ナマエの荷物、もしかして殆どキッチン周りのものだったりする?」
「うん、ここ出る時に殆どはあげちゃったし、数着の服だけあれば困らないから」
「そりゃあんだけ少なくて軽いワケだわ……」

 昨晩彼女の部屋に運んだ段ボールもトランクケースも、見た目こそ大きかったがガチャガチャと音が聞こえるだけで随分軽かった。なんなら頑丈な造りのトランクが一番重かったんじゃないだろうか。……部屋だけでなく荷物までも生活感がないとつい思ってしまう。
 昨夜何度も忘れ物があるんじゃないかと林道さんが確認していたら、荷物を増やせば死んだ時に迷惑をかけるから、と彼女は苦笑気味に答えていた。死んだ後のことなんて今から考えて荷物を増やさないなんて、そんな虚しい話があってたまるか。

「お前、来週にでも私服買い足した方がいいよ。服足りなくて俺のパーカー着ることになる」
「やだ、そうなる未来回避してよ」
「未来視じゃなくて勝手な予想だから無理」

 一人暮らしの時のようにはいかないからな、とダメ押しの言い訳を与えてやれば、彼女は諦めたのか言い返すのをやめて深い溜め息をついた。

「ご所望はなに?」

 俺はニンマリと口角を上げてナマエの顔を見た。はい、未来確定。そうして来週は、午後の視回りついでに彼女の服を買い込むことに成功するのである。どっちがメインかはご想像にお任せしたい。
 向かいの席から「迅さん性格わる……」と聞こえた気がしたが、白髪の彼はそれ以上何も言わずに、焼き上がった熱々のパンケーキに齧り付いた。
 珍しく彼女のパンケーキは焦げていたが、これぐらいが丁度いいのかもしれない。今の俺とナマエは傍から見ても甘すぎたから。





 未来の分岐も確定もいつだって突然で、イレギュラーもまた然りだった。次の侵攻が基地内を狙ったものだと分かり、市街地への被害が出ない事に安堵していた、そんな時である。
 会議の流れを止め、一旦サイドエフェクトが視せる未来に集中する。ひと通り視て、本部に今日のシフトを確認してもらう。本来太刀川隊が入る筈のシフトにナマエが代打で入っていた。任務の始まるほんの数分前に滑り込みでの変更だったらしい。

「太刀川さん何かあったの?」
「あいつのことだ、概ね単位絡みだろう」
「風間さん手厳しいけど多分それだ」

 あちゃー……と堪らず頭を抱える。そのまま太刀川隊が入っていれば、前衛の太刀川さんに出水の後衛からの遠距離サポートで然程てこずらない相手だろう。だが、今日はとことん噛み合わせが悪いらしい。何故か黒トリガーを使うナマエの姿が視えた。いつもなら使用許可を取るというのに、そんな素振りもみせないで。

「駄目だ、ナマエ電話に出ないぞ。規格トリガーにも応答がない」
「嵐山それマジで言ってる?」
「こんな土壇場で嵐山が巫山戯る人間だと思うか?俺は思わないが。」

 嵐山の言った事実と風間さんからの正論がぐさぐさと俺に刺さる。すると鬼怒田さんの怒号が響いて、ナマエの規格トリガーが玉狛支部に反応があることが周知された。いつも両ポケットにトリガーを入れている彼女なのに、忘れるなんて思ってもみなかった。任務時間まではまだ先があるものの、彼女は早めに着いて共有を受けつつ、隊員たちのケアをするのが最早日課だった。今日もきっとそうだろう。

「城戸さん、俺、」
「嵐山は予定通り広報の仕事に行け。風間は本部待機、迅はナマエを追いかけろ。風刃を持っていけ」
「っ、ありがと、」
「それと行く前に顔を洗うなりなんなりしてその面をどうにかしろ。ナマエは死なん。ただ手こずる未来が見えただけでお前がそれでどうする」

 城戸さんの言葉に呼応するように、背中をとん、と押し出された。振り返ると風間さんが「万が一の時は任せろ」と表情を変えずに言った。それが彼の精一杯の優しさだと俺は知っている。鬼怒田さんが持ってきてくれた風刃を掻っ攫うようにして、俺はナマエのいるエリアへの最短距離を選んで駆けた。





「絶対太刀川さんの代打になったせいだ、じゃなきゃこんなの迅絶対言ってくるもん、私知ってんだからな」

 ゲートから出てきたトリオン兵を散らばる前に片っ端から片付けてもう何分経っただろうか。今日は自分の確認不足もあったとはいえアンラッキーな一日のようだ。
 外出間際にスマホの充電が出来てないことに気づいて、泣く泣く置いてきた。最悪規格トリガーがあれば緊急任務だけは分かるだろうと思って。そんな風に奢っていたら、それすらも忘れた。普段なら両手を突っ込んでいて家を出る前に気づくのに、久々にポケットの無い服を着たせいで私の手は徒歩に合わせて揺れていた。
 そもそも本部に行くつもりで外出したわけでは無いのだから当然ではあるのだが。ゆっくり散歩をして、気になったカフェにでも入って仕事のチェックでもしようと、バックパックにはいつかの続きのデータと資料が詰め込まれている。パソコンが無い分軽かった。
 それなのに、危険区域近くを通った私を見つけた太刀川さんは、否応無しに私にシフトを押し付けて去っていった。出欠がリーチらしいが、どうせ碌に聞いてない授業なら単位を落とすんだし諦めろ、とは内心だけで言った。私と混成部隊をした事がない出水くんは眉を顰めて「どうします?」と訊ねてきた。瞳にはやんわりと「個人戦行きたい」と惜しげもなく書かれていた。隠し切れない気持ちは押してあげるのが年上の優しさだろう。

 そして私は今、1人でトリオン兵と戦っている。正直帰りたいです。あと太刀川さん単位落とせ。

 現着後も基本対敵するまでは換装しないし、簡単に済むなら全身換装はせず黒トリガーから出る斬撃だけで済ませてしまう。だから今の今まで規格トリガーを忘れたことに気づかなかったのだ。阿保以外の何者でもない。
 連絡がつかないことで異変に気づいてくれたオペレーターの子(恐らく柚宇さん)が恐らく忍田さん達に話してくれているだろう。私はそれまでの繋ぎをすればいい。
 私は自身の持つ黒トリガーが"二刀流"であったことに、ここまで感謝する日が来るとは思わなかった。





「きっつ……!!」

 体感なのでどれくらいの時間が経ったのか分からない。分かるのは、機能停止したトリオン兵の残骸が着実に積まれていき、それでも門から出てくる勢いは落ちないということだ。

(換装体にしなくて正解だったな)

 換装しないことは、相手の一撃が即死に繋がることを指す。でも、その分トリオンの使用量はトリガーだけでいい。幼少期からずっと父−唯一の師に叩き込まれてきたことだった。命の有り難みを忘れるぐらいなら、換装なんてするな。きちんと肌で感じたことを戦いに活かせ。その為に生身もしっかり鍛えろ。それが結果的に換装体での戦闘に繋がるから、と。
 紙一重で素早い動きを捉えていたので小さな切り傷は蓄積していたが、その対価に刈り取れるならばお釣りがくるぐらいだ。何より私が粘っている内に本部からヘルプが来るだろう。そんな甘い考えが死を招くと散々教えられていたことを私は失念していた。
 迂闊だった。
 疲れが蓄積していた私は、足元に開いた小さな門に気づく事ができなかった。鷲掴みにされた軸足はよろめいて、トリオン兵の牙が眼前に迫る。人はこういう時、痛みから逃げるように目を瞑るらしいが、私は目を瞑ることも、ましてや逸らすことも出来なかった。ただただスローモーションに感じられたその刃先を見つめることしか出来なかった。

 「たすけて、じん」

 何故迅だったのかは分かりたくなかった。これ以上何かを彼に背負わすことは、もうしたくなかった。強くなって、未来視はないけれど隣に並んで戦えるようになれれば、それで良いと思っていた。孤独には慣れていた。そう思い込むことでしか、この国も守れる気がしなかったのだ。兄も父も、私の目の前で最期を迎えた。私は、1人で最期を迎えるのか。それはやだなぁ。せっかく玉狛に迎え入れてもらえたばかりなのに、神様は私の何が気に食わないのだろう。
 きっと神様は嫌いなのだ、私も、迅も。
 だからこんなにも苦しめる。迅は人の生き死にを背負わされ、私は近界民にも幻界民にもなりきることを許されなかった。
 私が近界民と知らない人たちの会話が聞こえる度に、自分の事ではないのに酷く胸に刺さった。彼らは知らないのだ。近界民もまた、感情があって、生きる為にやむなく他者に手をかけているという事を。扮装地帯となんら変わらない。それでも知らざるもの達は、安全な場所からただ非難だけを浴びせ続けるのだ。
 そこまで考えて、私は溜め込んできた気持ちが一気に溢れ出した。死ぬ前ぐらい、いいじゃないか。

「なんで私だけ界境防衛機関ボーダーに残したの……お兄ちゃんでもお父さんでも、他の幻界民でも良かったじゃない。何にもなれない私よりずっといいじゃないの!!!」
「そんな寂しーこと言うなよ」

 決して近い距離ではなかったが、私の耳が彼の声を取り零すなんてことは決してなかった。目の前のトリオン兵は滅茶苦茶に切り刻まれている。恐らく風刃のものだろうが、流石にオーバーキルがすぎる。いつの間にか閉じられた門は、トリオン兵の残骸だけ残して消えていった。ゆったりとした足取りで近づいてくる迅は、風刃とは別の規格トリガーで手遊びしている。恐らく私用に本部のものを持ってきたのだろう。不要だと分かって持て余しているようだった。
 立てる?と優しく訊ねられた。
 私は顔を伏せて、言葉無く首を横に振った。きっと彼はいつもの困り顔で、でも満更でもなさそうなんだろう。何も言わずに背中を差し出す彼に、私は勢いよく飛び乗った。うお、と慌てた声が聞こえたが、楽しそうにからからと笑っている。

「こちら実力派エリート迅悠一、苗字隊員生存確認しました。生身のまま黒トリガーを使用したため、大きな怪我はないですが小さな切り傷が多いです。一応医療班待機しててください、今から向かいますんで。それじゃ」

 無線を切ったのだろう。迅ははーーぁ、と気の抜けた声を上げてトリオン兵の残骸を再び見上げた。改めて見ると、我ながらよく捌けたな、と他人事のように思った。

「これを生身でって、やっぱりナマエはすごいな」
「私がここに居て良い理由だから」
「お前、つまんない嘘つくね?」

 遊真を真似て茶化して言うものだから、口端の傷が痛むのに笑ってしまった。嘘なんかじゃない。本当にそう思って生きていた。三門より遥か昔、目の前で兄が黒トリガーになった時。兄の分も戦い抜くことが、私の業だと思った。そして父を亡くした時、私が散るのは此処だと誰に言われるでもなく悟ったのだ。

「生きる事に、生かされてる事に理由なんかつけるなよ」
「迅は、生きてて息苦しいと思わないの」
「息苦しいよ。でもそれ以上に頑張って良かったと思える事がある」

 迷いのない言葉だった。そうか。彼でも矢張り息苦しいと感じるのか。わかっていたけど、改めて本人から言語化されると沁みるように実感が湧いていく。私は彼のために何が出来るのだろう。ぎゅう、とおぶられ首周りに回した腕をきつめた。一度流れ出した涙は止まる事を知らない。馬鹿になった蛇口みたいに溢れて止まない。泣きたいのは誰よりも彼のはずなのに。

「ナマエの未来見えた時、俺死ぬかと思った」
「……でも死ぬ未来じゃなかったでしょ」
「そういうことじゃないよ」

 身体を揺らして笑う彼は矢張り楽しそうだった。じゃあどういうことだというのだろう。

「俺の幸せを少しでも願ってくれるならさぁ?こんな無茶しないでまたパンケーキ作ってよ。パンケーキじゃなくてもいいや。毎日支部に帰るようにするからさ、毎日顔を見せてよ。ああ未来視は関係ないよ。ただ、今日もナマエの明日を守れたなって、安心させてほしいんだ」

 俺も、沢山のものをなくしてしまったから。そう零した声は強まった風に奪われて行きそうなほどに弱々しかった。
 誰かにとっての正義は、誰かにとっての悪だと過去に誰かが言っていた。私を守る事でどれだけの命が失われてしまうのか、考えただけでも恐ろしかった。だから私は迅から離れ、1人で戦える術を片っ端から勉強してきた。けれど、それは迅が望むものとはある意味真逆だったのだ。

「ナマエは強い。死なない。だから、大人しく俺に守られてよ。代わりにナマエは、俺が取り零しちゃった分もたくさんの人を救って」

 そうやって私に甘える言い訳を与えてくるのだ、迅悠一という男は。お手上げだ、敵わない。私はふは、と笑いを漏らして、迅私のこと好きすぎじゃない?とつとめてかるい調子で投げかけた。すると逃さないとでも言いたげに、おぶっていた迅の手に力が込められる。

「大好きだよ、ナマエも俺のこと大好きだろ?」

 ほらやっぱり私はこの男に敵わないのだ。おぶられた揺れで微睡みに飲まれかけている間、迅が耳まで真っ赤だったことは、彼本人しか知らない。


君といきてく月曜日

(この後迅は、太刀川さんを模擬戦でボコボコにしたらしい。)

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