「ぬ、迅か?!お前も来い!ワシらには手に負えん!脳波を測ってたら途中から急に乱れてな、そしたら途端に暴れだして、」
「風刃借ります」

 封鎖された検査室にはところ構わず暴れ回るナマエの姿があった。幸い攻撃性のあるトリガーは持っていない様だが、筋力強化を持つナマエに流石のエンジニア達は太刀打ち出来なかったのだろう。雷蔵さんも居たが、元戦闘員とはいえ今はすっかりぽっちゃりで、彼女のことを捉える事は難しいという。

「とりあえずトリオン体から生身に戻す。そっから抑えるんで、俺が部屋入ったらすぐ厳重に閉めてください」

 検査室から響く声は分厚い扉越しでくぐもっていて、何と言っているかは分からない。脳波計をつけたまま暴れているところを見るに、計測中にうたた寝をして悪夢でも見たのだろう。扉を潜れば案の定、謝罪を続けてばかりのナマエが暴れ回っている。攻撃的というよりは自傷的な振る舞いのそれを、一度風刃で切り裂く。放たれた数本のうちひとつが何とか当たった様で、カラン、とその場に試験トリガーが落ちる。それでもお構いなしに床に手を叩きつけ続けた所為で、力のあまり床には滲んだ血が点々としている。夢うつつの中でもがく彼女を現実に戻すべく、計測器を頭から外して暗闇からナマエを呼び戻す。

「ナマエ、そこまでにしよう」
「……じん?わたし、なにを」
「脳波の計測中に騒ぎだしたってきいて、迎えに来たよ。一旦治療しに行こうか」
「やだ、行かない、行けない」
「ナマエ?」

 ぎゅうと俺のジャケットを握る彼女は顔面蒼白で、酷く怯えていた。一体何に怯えているのか、俺には皆目見当がつかない。過呼吸気味のナマエをひとまずベッドに座らせ、落ち着くまで背中を摩ってやると掴まれていたジャケットから離れた手が腰に回って、カッと顔が熱くなる。
 腹の辺りに顔が押し付けられ思わず部屋の外を見たが、「今更何を」と言いたげな顔で、どうやら助けは望めなさそうだ。羞恥心を覚えながらも何とかナマエを落ち着かせ、彼女が話し出した頃には忍田さんも着いていた。静かに入室して壁にもたれて此方の様子を窺っている。俺たちの会話に口を挟む気はない様だ。

「ゆっくりでいいから、きちんと息吐いて」
「わた、し……!裏切り者じゃない!スパイなんかじゃないの!!」
「……は、」
「みんなの為に黙ってたなんて言い訳にしか聞こえなくても、私にはそうする以外考えられなかった、からっ」
「落ち着けって!」
「ごめんなさい、痛いのはもうやだ、や、めて……」

 目の前の彼女は言葉こそ紡いでいるが、俺じゃない"誰か"に向かって訴えているのだと、面と向かって言われればすぐに分かった。いつ頃のどの国かなんて知らない。でも、幼い頃渡ってきたどこかの国で、今回のガロプラ戦に似た状況に陥り、スパイを疑われたのだろう。
 俺たちの当たり前じゃない日常の中を生きてきた彼女に、そこまで事前に配慮こそ難しいとしてももっと気づける場面はあったのではないかと今朝の冷ややかなナマエの声を思い出しては、情けなさで心臓が潰れそうだ。

「わたしちゃんと頑張るから!だから兄さんを殺さないで、お願いします……痛いのも戦いも頑張るから……っ!!」

 彼女の兄は殺されたと聞いた。勝手に戦争の渦中でそうなったのだろうと、その中で黒トリガーとなり、今も尚妹の傍にいるのだと、勝手に綺麗事にしていた。それはきっとこの言葉を耳にした人間全員がそうだっただろう。

 彼女の兄は殺された。

 スパイを疑われ、おそらく苦しむ妹を庇って。彼女の傷の深さは、もう俺なんかでは到底底が見えなかった。すっかり泣き疲れ、暴れ疲れたらしいナマエがくたりと俺に凭れかかり意識を失った。規則正しい寝息。次こそは悪夢でない世界にいてくれたらいいのだけれど。

「迅、大丈夫か」
「忍田さんも鬼怒田さんも、俺じゃなくてナマエの心配をして……」
「迅」
「……ごめん、けっこーキツイ、かも」

 一人では到底背負えないようなものを彼女は持ち過ぎている。聞いている此方が耳を塞ぎたくなるようなことがまるでミルフィーユの様に折り重なって、自重で潰れて、また折り重なって、その繰り返しだ。
 視線を落としているとふと鬼怒田さんが誰かに電話をしている声が聞こえた。顔を上げるとぶっきらぼうにタオルを渡されて顔を洗ってこいと言われた。

「後輩にそんな顔で会うつもりか?お前さん」

 俺はハッとして急いで顔を洗って少しでも気を保とうとした。なんせアイツに嘘は通じないから。





 俺が戻る頃には到着していた白髪の少年は、静かに眠るナマエのことを椅子に座って見下ろしていた。事情は粗方鬼怒田さんと忍田さんが話したらしい。見つめる瞳は一体何を思っているのだろう。

「あ、迅さん」
「悪いね遊真、個人戦やってたんだろ?」
「いーよ、ナマエさんの方が大事だから」

 近界じゃ珍しくもない話だと、静かに語り出した遊真の声に耳を傾ける。劣悪な環境であればある程、疑心暗鬼が蔓延り、負けが続き、そしてその溜まったストレスの矛先は異国から来た人間に向けられる。どれだけ国に貢献していようが関係ない。他所者は他所者にしかなれないのだと。
 だからこそ、玄界でも遊真自身、これだけの待遇を受けられている事に驚いているという。近界ではまずあり得ないか、あっても遊真は行ったことがないらしい。

「だからナマエさんは線引きを自分に強いていたんだと思うよ。俺はある程度の歳になってから戦場に出してもらえる様になったけど……ナマエさんは相当小さい頃から駆り出されてたみたいだし、そーゆう脅しで働かせるのが有効なのは大人は知ってるでしょ」

 幼少期に植えつけられた価値観を覆すのは酷く難しい。そういった形成がされる大切な時期に彼女は三門市へとやってきた。だからこそ、近界民であると自分に言い聞かせ続け、隔たりを自らの手で作り続けたのだ。
 遊真が三門市に来たばかりの頃、「子どもは大人が守るもの」という価値観を聞いて不思議そうにしていたのを思い出す。自分たちがどれだけ恵まれた環境にいるのかを悲しいほど痛感する。扉の外から此方を窺う鬼怒田さんも、流石に眉を顰めていた。

「でも、ナマエさんも変わろうと努力してる。だから玉狛に帰ってくることを選んだんでしょ?だったらオレたちに出来るのって、これからの事だけじゃない?」
「遊真、お前やっぱりオレより年上だろ?」
「迅さんつまんないコト訊くね」

 彼女のこととなるとトコトン遊真には敵わない。そして頼りになるのもやはり、彼だった。

星は静かに水没する

ALICE+