ゆっくりと浮上した意識は、ベッド横にもたれる白髪を捉えた。少し身体が重い。手がじんじんと痛む。視線だけ向けるとぐるぐるに巻かれた包帯からは血が滲み出ていた。

「あ、ナマエさん起きた?おはよう」
「遊真くん、あの、これは」
「包帯変えながら話すよ」

 本部のエンジニア室にいた筈の私は、玉狛支部の自室に戻っていた。大人しく包帯を変えてもらいながら、断片的な記憶をなんとか掴もうとする。すると、まるでそれを咎めるように遊真くんが私の頬に手を添えて、顔を横に振った。怪我したのはナマエさんだけだよ。そういって再び包帯の交換に勤しむ彼に、事の顛末を訊くのは止めた。ぬるま湯に浸しながら剥がされた包帯の中からは、久々にギョッとする様な痛々しい怪我が出てきた。まるで何かを叩きつけたような皮の剥がれ方をしていた。軽くすすいでから塗り薬を塗られ、再び包帯を巻き直される。流石、手際が良い。

「遊真くんありがとう、手際が良いね」
「ナマエさんもこれくらい出来るでしょ?」
「比べる事じゃないよ。……この怪我の理由を知ってるのは?」
「俺と迅さん、あとエンジニア室に居た人と忍田さん。暫くは風邪ひいたってことにして俺とか林藤さんがご飯運ぶから、ゆっくり寝てて」
「えっ、でも私のシフト……」
「迅さん達がやってくれるから大丈夫だよ」

 一体全体何だと言うのだろう。曖昧な記憶の部分で、私は何をしてしまったのだろう。不安がつい顔に出てしまったのか、遊真に笑われてしまった。

「みんな言ってたよ。ナマエさん無自覚に無理してるから休めってさ。オレもそう思う。」
「そんなに酷い顔してる?」
「そうじゃないよ」

 天井に手を翳した遊真くんは、己の命とも言える黒トリガーの指輪を目を細めて見上げている。私もつられて、ベッド脇に置かれた兄の遺産である黒トリガーをそっと撫でた。当時の幼い私の手でも包めるサイズの小さな黒トリガー。小さく見えるたびに時の流れを恐ろしく感じるのは何故だろう。

「……遊真は怖くないの?」
「ナマエさんは何に対して怖がってるの?」
「……化け物のような、自分に」

 つい言葉にして初めて自覚する。そうか、私は自分の事を化け物だと思っていたのか。そこでやっと全てが腑に落ちる。頑なに線引きをしてきたのは近界民だからじゃなかった。私が幼い頃から経験した数々の事が、私を化け物にしたことを知られるのが怖かったからだ。
 母親は自身の妹に騙されて贄となった。
 兄は人質とされ、私の所為で殺された。
 父親は私をボーダーに託して間も無く、安心したように息を引き取った。

「私の周りはいつも死で満ちてた。だから、迅やみんなまで巻き込むんじゃないか、怖かった」
「ナマエさん、俺たちの今いる此処は近界じゃないよ。強い仲間が沢山居るし、治安も安定してる、何も怖い事なんてないよ。それを疑うのは味方が弱いと認める事じゃない?」

 遊真の言葉にハッとした私は、黒トリガーを手に取り握りしめた。そうだった。私が居るのはもう近界じゃない。玄界には十分過ぎるほどの待遇をしてもらっている。それは亡き父からの最後の愛情だった。
 ぶわりと湧いた感情は、一度溢れ出したらもう止まらなかった。抱え込んでいた不安は次から次へと溢れる。言葉につかえながらも話す私に静かに相槌を打ってくれる遊真くんに申し訳なさを感じつつも、もう、抑える事は無理だった。

「私、何者なんだろうって、怖くなるの」
「ナマエさんはナマエさんでしょ」
「でも、遊真くんはどちら側って訊かれたら、近界民って答えるでしょう?きっとヒュースくんも」
「オレは……うん、そうだね」

 近界民と言うには昔すぎるし、悪い記憶ばかりが蘇る。かといって玄界民かと言われれば、肯定しかねるのもまた事実だった。過去に近界でスパイを疑われた事。アンチ近界民の存在。戦略における考え方のズレ。些細な事が積み重なって、迅に導いてもらった居場所からまた離れようとしている私がいた。離れた場所で見ていればその都度介入すれば済んだ。輪に入ることで、私はようやっと玄界に来て初めて、他人の目を酷く恐れているのだ。

「オレと違ってナマエさんはこれまでの功績があるでしょ。大丈夫だよ」
「でも……私、何者にもなれないの」
「何者かになりたいの?」

 まんまるな瞳で問う姿は不思議で仕方がないとでも言いたげで、私はそんな彼に属せない事は恐ろしいと伝える。私はいつだってマイノリティだ。

「……それさぁ、迅さんに話してみたら?林藤さんとか忍田さんとか付き合い長い人でもいいけど」
「迅に?」
「きっと不安を打ち明けてくれるの、待ってるよ」

 彼はゆるりと微笑んで此方をみていた。彼のサイドエフェクトが無くても、その直感が嘘ではないと分かった。確信めいたものだということも。私は遊真くんにお礼の代わりにご飯は何が良いか尋ねた。そしたら一緒にかげうらに行こうと手を引かれる。彼のおかげで今なら、小さなハードルをひとつ、飛び越えられそうな気がした。

羅針盤は星を越える

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