がつん、と痛ましい音を立てて壁につかれた腕は、私を通さんとばかりに肘から指先までぴたりと張り付いていた。自分なりに努めたけれど、やはり迅から逃げ回るのは無茶だったようだ。彼は何も語らず虚空を、強いていえば未来の私をじっと見ている。きっと私の不貞腐れた顔になんて気づきやしないだろう。
 逃げ回っていた理由は些細なことだ。私を通して母国の動きを悟らせない為。それが迅たち含め上層部に伝われば、きっと私を戦場に出すことを避けるだろう。それだけは何がなんでも阻止したかった。しかし努力虚しく、こうしてボーダー基地の廊下で見事に捕まってしまった。リーク源は忍田さん辺りだろう。

「……お前の未来見るといつも酔うんだけど」
「速すぎて?」
「そ、速すぎて」
「じゃあ戦地から離すことには失敗するのね」
「残念ながらそうっぽい」

 ふにゃりとやや自嘲気味に笑ってみせた迅は、間近に迫った閉鎖訓練の準備も相まってか、疲れを感じさせる空気だった。遠征選抜も兼ねた閉鎖訓練中は、ほぼ私も任務に出突っ張りだ。迅も審査の合間を縫って任務に出てくるらしい。本当に多忙な男である。

「……ナマエはさ、軽蔑した?」
「母国見捨てること?全然。むしろ滅びればいいとすら思ってるよ」
「おっと予想を越える過激な発言、そんなケロッとした顔で言うなよ」
「だって本心だもの」

 アフトもそうだけど、何故私たちの生まれた星は地球のように一人の犠牲もなく回り続ける星じゃなかったんだろう。トリオンが不要だったら伯母が選ばれることもなく、母と入れ替わるなんて企てをしなかった。真実を知った私たちが母国から逃亡して、その最中で兄が命を落とす事も、父が三門でやり遂げたかのように息を引き取る事もなかった。
 これはだろう、という予想ではなく確信だ。だからこそ私は母国を許さない。誰彼が悪いとかではなく、母国の存在そのものが許せない。だから私は。

「どれだけの兵力を向けられたとしても、私は屈しない。だって私が息絶えた時、また次の犠牲者選びが始まるから。だったら私で終わりにしたらいいんだよ」

 力の緩んだ迅の腕を押し退けて廊下の先をゆく。迅は何か言いたげに口を動かしていたけれど、最後まで音が届くことはなかった。それでいい。今は何も言わないで、なにも。





 日中ナマエと話したことを反芻しながら、夜空に登っていく湯気をぼぅっと眺めていた。
『滅びればいいとすら思ってるよ』
 どれだけの死地を潜り抜けてくれば、同い年の女の子にあそこまで言わせるのだろうか。いや事実として起こったことは知っている。ただ、その重さまでは本人以外知るすべはない。
 思わず手すりに頭を下ろす。彼女の未来はいつもすばしっこくて、生き急いでいるかのようだった。そりゃ自分自身も未来視に慣れるまでは何度も身体が拒否反応を示した。彼女も自身のスピード制御に慣れるまでは度々大怪我をしたと言っていたのは、もう何年も前、知り合って間もない頃だったか。

「隣いいか?」
「お邪魔しま〜す」

 眺めていた湯気がすっかり姿を消した頃、マグカップを二つ持ったレイジさんと、牛乳パックを両手で抱えている遊真がやってきた。俺の手からは冷め切ったマグカップが奪われ、代わりにまだ温もりのあるココアがレイジさんから手渡された。俺のコーヒーは牛乳を足して遊真が飲むらしい。

「もう夜も遅い。任務もないんだ、カフェインはやめとけ」
「休める時に休まないと死んじゃうよ迅さん」
「遊真が言うと冗談にならないんだよなぁ」
「ナマエのことか」
「まー、ねぇ……」

 反芻したばかりの内容をありのまま伝えると、彼女らしいという評価だけが返ってきた。確かにそうだけれども。そうじゃないんだよ。

「迅さんは残酷なナマエさん嫌い?」
「嫌いとかじゃなくてさ、そんな風に考えさせたくないってだけだよ」

 ふむ、と視線を向けてきた遊真につい息が漏れる。生き様も生まれた星も何もかも違う俺たちが、唯一共に出来るのは未来だけだ。せめてこの先は地球に暮らす一人の女の子として、当たり前の幸せを感じてほしい。それだけのことが、こんなにも難しいなんて。

「あ、遊真がナマエと共闘してる未来視えた。多分確定だ」

 難しかろうがなんだろうが、俺たちはそれを覆していく。ただそれだけだ。

毒を食らわば地獄迄

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