音駒の白寝子此処に在り


 音駒バレー部には"寝子ねこ"がいる。
 決して起こしてはならない猫が。


 教官室のデスクにある椅子を退かして卓上を陣取る小柄な彼女は、テンポよく気持ち小さめのおむすびを握っていた。小さめなのは、その方が少食の研磨くんも食べてくれるからだ。調子が良ければ2個食べてくれるので、下手に大きめなものを作るより良い。釜の中のお米が尽きた所で、釜は水に浸けて手をすすぐ。洗うのは後でボトルドリンクを入れ替える時にまとめてやればいい。
 乾燥防止のハンドクリームをすり込みながらスマホの通知を確認すると、「おじいちゃん」と書かれた相手から、今し方バレー部練習の進捗が届いていた。うん、休憩まではまだ少しかかりそうだ。此方は用意が出来ている事を返信して、終わる頃の連絡を待つ事にした。
 テレビモニターの電源を入れ、先日撮ってきたDVDを滑り込ませた。読み込みを待つ間に、棚から異なる高校名の記されたノートを取り出して最新のページを開く。生で観てきた試合の日付、スタートのローテーション、所見。その下には余白を多めに取ってコートを描く。逆算通りなら、1セット目までは見返す事が出来るだろう。画面の中のホイッスルの音と共に、意識はコートの中へとダイヴした。

 1セット目が終わり、リモコンの一時停止を押した。ブルーライトカットの眼鏡を外してグッと腕を前に伸ばす。凝り固まった身体が解れていくようで心地良い。ふと聞こえたコンコン、という控えめなノック音で誰が来たかを悟り、どうぞ、と入室を促すと、予想通り研磨くんが顔を出す。

「私が持っていくから良かったのに」
「監督が行けって言うから……」
「ふは、そうだったの。ごめんね、後で怒っておくから」

 別に平気だと言い、続けざまに今日のおむすびの具を訊ねてくる彼に、思わずくすりと笑ってしまう。なんだかんだ優しいのだ、我らが音駒の脳は。畳み終えたタオルが入った籠とジャグ、おむすびの乗ったトレーを手分けして体育館へと運びながら、研磨くんの並べる休憩明けの練習への愚痴を聞いた。それでもやめないから、彼は本当に何処までも負けず嫌いだと思ってしまう。





「おじいちゃん、選手寄越すなら連絡してよ。途中までの進捗連絡くれた意味無いじゃない」
「終わりの予想つく方がDVDチェック捗るだろう?お前の場合は」
「もう〜ああ言えばこう言う……あっ、みんなーカロリー補給してー!」
「……今日はしゃけだってよ、中身」

 クロ好きでしょ、と呟く研磨くんの視線の先には、彼と幼馴染でひとつ歳上の黒尾鉄朗ことクロ先輩。肉より魚派な彼はおっ、と少し嬉しそうにおむすびを取りに来た。大きな掌は片手で器用に二つ、トレーから取り上げていく。

「ナマエチャンの鮭むすび、たたのほぐし鮭じゃないから食欲そそるんだよ。これいつも何してあんの?」
「あ、クロ先輩。それはですねぇ、炒りごまとかお醤油で和えて、すこーしだけ塩分を足してます」
「流石ナマエだな!ひと手間でこんなうめぇのか」

 リスのように頬張って食べる夜久先輩は感心したような声で「美味い美味い」と食べ進め、その隣では海先輩が微笑みながら「やっくんよく噛んで」と声をかけている。少し離れた場所でも、賑やかな後輩達が味わってくれているようだ。たとえ単なるカロリー補給でも、これだけ喜んでもらえるならば嬉しいし、改めて尽くし甲斐のある年になるなと感じた。
 ナマエちゃん、と名前を呼ばれて視線を正面に戻すと、クロ先輩が満面の笑みでこちらを見下ろしている。彼の場合少しヴィランみを感じるけれど、悪意なんて微塵も無いと知っているから何も怖くない。

「いつもありがとネ。でも無理はしないでちょーだいよ?」
「去年のお馬鹿さん達も、噂を鵜呑みにする人も此処には居ないので平気ですよ」
「言うネェ、ナマエちゃんのそゆとこ好きよ」
「ふふ、それはどーも。あ、監督呼んでるから行きますね」
「ウンウン、午後も宜しくネ」

 おじいちゃぁーん、と間延びした声が黒尾の元から離れていく。足元では胡座をかきながらおむすびを食べる夜久がニヤリとほくそ笑み「脈無し」と呟いた。海はその言葉に是非は言わずにただ微笑んでいる。

「守りの音駒、長期戦は得意よ?任せなさい」

 これは、監督の孫娘である苗字ナマエが、黒尾鉄朗に捕まえられるまでのちょっとした記録だ。

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