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 音駒高校バレー部は、度々猫と揶揄される事が多いが、『猫』という名の由来は諸説ある。かつて猫は「ねこま」と呼ばれており、その由来の一つに「寝獣(ね/こま)」「寝子獣(ね/こ/ま)」がある。また、『寝子』については「寝ている子どもをわざわざ起こす必要はない」それが転じて「下手な手出しをすれば災いが招かれる」事を指すとも。余談だが、寝子という呼び名から、花魁に好んで飼われていたなんて歴史もあるとか。

「って、たまたま見かけて……これナマエだなって思った」
「え、私花魁になるの?」

 連日の練習試合を終えて、束の間の日常へと戻る。テストを終える頃にはあっという間に合同合宿を迎えてしまうことを思うと、研磨は一気に気が重くなった。そんな研磨の気など知らない彼女は、先の戯言に対して「貧相な自分には無理だよ」なんて明後日の事を言い出すものだから、思わず呆れてしまう。「そこじゃない」と言いかけたが、彼女の啜り続けていた紙パックの腑抜けた音にすっかり毒気を抜かれ、もーいいや、と手元のゲーム機に視線を戻す。





「……っていう話をナマエにしたんだよね」
「昼休みになんつー話をしてるのよアナタ達」
「で……どう思う?寝子」
「ウン聞いて?」
「ナマエ先輩って猫なんですか?!!」
「リエーフ声でけーよ。あと寝子な、寝子」

 招き猫のポーズをするリエーフとそれを訂正してやる猛虎が会話に入ってきて、一気に騒がしさを増した。ふと、二人はどー思う?と黒尾は話を振る。未だ話を理解していないリエーフは「綺麗な毛並みな猫のイメージです!!」と明後日の返答を返すが、猛虎は暫し考えたのちに「触らぬ神に祟り無し…ですかね……」と血の気が引いた顔で呟く。視線は虚を彷徨っていた。その言葉に2,3年はぴた、と止まるが、1年は誰一人として理解が出来ない。当然である。あれだけ彼女が周囲を恐怖で震撼させたのは、後にも先にも昨年のあの一度きりなのだから。そして。

「それで惚れるお前もお前だよなー」
「やっくん俺なんかした?アタリ強くね?」
「黒尾先輩、ナマエ先輩のこと好きなんですか?」
「おう、この一年見てきたけど、全然打っても響いてねーでやんの」

 ニヤニヤと笑う夜久に珍しく言葉を失う黒尾の姿に一年一同目を丸くした。あの黒尾先輩が、口喧嘩で負けてる……!そんな一年に更なる爆弾を意図せず落とすのが我らがセッターである。

「夜久くん違う、クロの片想いは小学生からだから……」
「「「はあぁ?!!」」」
「モー頼むから早く着替えてくれ……」

 黒尾が項垂れがちにその言葉だけ残して教官室に今日のメニューを受け取りに赴くと、監督とナマエが何やら真剣な眼差しでテレビモニターとマグネットボードを見ていた。ああでもないこうでもないと言いながらマグネットを動かしている。先日の練習試合を見返していたようで、モニターにはあの印象的なオレンジ色の髪が映り込んでいた。
 ふと交わった視線に「よっ」と声をかければ、ふわりと笑ったナマエが此方へと駆け寄ってくる。……確かにこれだけじゃあ、怒る彼女を想像しろというのも無理な話か。

「監督チワッス、ナマエちゃんと反省会ですか?」
「昨晩も散々話したんだけど話題が尽きなくてネェ。随分と夜更かしさせられてしまったよ」
「お、おじいちゃんだって乗り気だったじゃない!!」

 紅く染まった顔を見せない様に、黒尾の視界を遮るように掲げられた両手を難なく掴まえて握り込む。あー!と叫ぶ彼女はこれくらいの接触で意識してくれるようなタマではないことはとっくに知っている。何処か楽しそうな猫又監督は、ナマエに焼き増ししておくよう伝え、それに応えた彼女はするりと黒尾の手から抜けていった。彼女から視線を黒尾に移した監督は、体育館への道中、悪戯を仕掛けるような表情でこれだけは教えてくれた。

「クロ、お前さんの1人時間差、あの子昨晩何回も見返していたよ」





「クロ先輩、これ、さっきのDVDです。あと私のまとめノートから……全部じゃないけど要所だけ一枚に纏めたので良かったら」
「相変わらず気が利くねー、アリガト」

 自主練を終えて帰り支度を粗方終えていた部室にやってきたナマエを、部室の中へと招く。DVDを受け取る際にふわりと香る金木犀の香りは、彼女愛用のハンドクリームのものだろうか。ノートに綺麗に並んだ文字も彼女らしい綺麗な癖のない文字。

「……ナマエ、次のオフって暇?」
「あ、爪のメンテナンスかな?行けるよ〜」
「何なら今日この後でもいいって……母さんが夕飯食べてく?って……」
「え!ほんとに?研ママご飯迷う……」
「まてまてまてまて、ナマエお前帰りあぶねーから明日にしとけ」
「はっ……夜久先輩の言う通りです!」

 夜久の言葉にうんうんと頷く彼女に「今日帰りは?」と海が訊ねると、監督とコーチがいるという。それならば安心だろう。
 ふと黒尾は閃いた様にナマエちゃんナマエちゃん、と声をかける。

「どーせ研磨のトコ来るなら、一緒に観ません?コレ」
「…クロ、オレ相手に嫉妬しないで……」

 研磨の呟きは賑やかな部室に掻き消され、思惑があるなどとつゆとも思っていないナマエは、黒尾の誘いに嬉しそうに首肯するのであった。





「プロゲーマーの人も爪に気を遣うって何かで見た気がする、研磨くんもやり方覚えたら?」
「……ナマエやってくれるし、いい」
「え?私将来も爪係やってるの?やだよ?」
「爪係って何よナマエチャン」

 本日晴天、部活はテスト前のオフ。俺の提案で、一番良いテレビを部屋に持つ研磨宅にて鑑賞会をすることになった。とはいえ研磨は爪を整えてもらった後は、携帯ゲーム機の虫となるのだろう。そしてナマエちゃんも恐らく何度も観た試合らしいので、研磨のゲーム画面に余所見をしながら、それでも鑑賞に付き合ってくれるのだろう。

「とりあえず普段の爪切る時も余裕残しておいてよ研磨くん。二枚爪とか割れたりとかしたらボール触れないよ?なんならトップコート持ってきたって良いんだから」

 てきぱきと研磨の指先をヤスリで整えていく姿はすっかり見慣れたものだったが、やり方や発言を見るに、長いことやってきた事なのだと分かる。これだけくどいといつもの研磨なら煩いだとか文句を垂れる頃合いだが、彼女の過去を知る彼は何も言わない。大人しく片手を彼女に預けて静かにその作業を見つめている。

「ホント上手なのな。流石って感じ」
「へへ、お褒めに預かり光栄です!クロ先輩もやりますか?DVD観てる間に手だけお借りできれば出来ますよ」
「え」
「クロもやって貰ったら?」

 すっかり整った爪は既にゲーム機にかけられ、その視線は揶揄いを含んでいるのがありありと伝わってきた。……研磨後で覚えとけよ。
 その後観た試合の内容なんてこれっぽっちも頭に入ってこなかった俺は、結局自宅のテレビで見直すことになる。レコーダーに円盤を入れる瞬間視界に入った爪先を見て、ただただ深い溜め息しか出てこなかった。




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