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観客席からでも見えた。あと指の関節ひとつ分、届かなかった距離はたったそれだけのはずなのに、とおく、とおく感じた。それは私がコートに存在しないからかもしれないからか、それとも。
あの合宿から帰ってから、私と祖父……主に私は慌ただしく日々を過ごしていた。それは大会前の大事な時期のバレー部に顔を出すのさえ、後回しにせざるを得ない程に。結局顔を出せたのは全ての手続きや両親との和解が済んで、何もかもが決着した後だった。
私、猫又ナマエは、両親に親権を放棄させ、祖父母と養子縁組をする事となった。引き留められる間もなく、待ってましたと言わんばかりの親の顔はさっさと忘れてしまいたいのに、どうして忘れることが難しいんだろう。
親に捨てられたのだ、私は。養子縁組を提示すればこうなると分かっていたけど、それでも多少堪えるものはあった。完璧主義者の両親、信用はとっくの昔に失くしていた。それでも今の私を見て欲しかった。頑張れば報われると、そう信じてきたけれど、手続きは悲しいほどスムーズに進められた。………ある一点の条件を除いて。
「この子には一人暮らしをさせて。これ以上恥の上塗りになるようなことされたらたまんないもの」
「今はお義父さんと住んでますよね?家はこちらが持ちますので、どうか承諾してください」
「今よりもっと難関の進学校で、せいぜい頑張ることね……ナマエ」
震えを抑えた声色で気丈に振る舞う"母だった人"の瞳が揺れたのを、私は見逃さなかった。親権を手放して、私達にはなんの関係性も残っていないのに、何故そんな口出しをするのだろう。そして逡巡ののちに、出来る限り丁寧に選んだ言葉を並べた。
「お爺ちゃんは……私とお母さんを比べてなんかないよ。"貴方"は一体なにに怯えているの?」
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「ただいまー」
誰もいない女子高生1人が住むには些か過分なワンルームに向けて声をかける。勿論返事はない。ぼんやりとした思考のまま、放り出したままのレポート用紙を意味もなく捲る。並ぶ英語の文字列は全く頭に入って来ず、結局流れるようにベッドへとダイヴする。
『ナマエチャン、春高こそは全国に行こう……一緒に』
あの日、会場を後にしようとエントランスホールへ向かう途中で意図せず遭遇した音駒バレー部のみんなは、音駒を離れてもいつもと変わらず接してくれた。それが酷く嬉しくもあり、けれど寂しく感じるものでもあった。
『アンタのせいで恥かいたわよ』
『全国負けたのアンタのせいだから』
『貴方が私の子じゃなければ良かったのに』
当たり前だったものが当たり前じゃなくなるのは一瞬だと、とうの昔から知ってたのに。なのに、私はまたその痛みを、悲しみを、性懲りも無く味わっているのだ。とんだ悲劇のヒロイン気取りで反吐がでそう。父が婿養子だったから表面上の名前は変わらないはずなのに、たった一枚の紙っぺらと薄っぺらい関係の放棄から全く違う意味を持った苗字"猫又"。私は、最初から無かったものの再確認をしただけのはずなのに、何故かたくさんのものを溢し、失くしてしまったような気持ちに涙が滲んだ。
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「なんで練習来ないんだろうね」
ふと部室に響いた研磨の問いに対して誰が、とは誰も言わない。俺と視線を交わした部員達はサッと着替えを済ませて体育館準備に部室を後にした。そしてその場には三年と研磨、部室を出ようとしたが結局留まった山本だけ。福永は動揺と困惑がない混ぜになった部員のフォローのために、体育館へと行ってくれたのだろう。
正直言ってナマエチャンがいない事で不都合は全く生じない。そうならないように彼女がずっとサポートしてくれていたからだ。元々彼女が監督に連れられてくるまでは部員だけで回していたし、彼女が効率の良い方法や知っておくべきサポートを控えのメンバーに教えてくれてからは、最近はどちらかと言うとーーとは言ってももうインターハイ地区予選前になるがーーは他校の分析やレギュラーメンバー、特にリエーフの不足しているレシーブ練習に時間を割いていた。リエーフのレシーブ練習は今日も夜っくんが見るだろう。
強いて言えば、他校の分析や部員達の調整だけが代役を立てる事ができない。
曲がりなりにも主将だから部員のことはキチンと見ているつもりでも、彼女の目の方がよっぽど見えている。瞬時に引き出す情報量が桁違いなのだろう。そういうところは少し研磨に似てる気がする。だから研磨も珍しく気にかけているのかもしれない。
「つってもよ、ナマエの奴が自分で来ないって決めたんだぞ?それじゃあ……」
「ナマエが居ないなら春高は勝てない」
淡々と事実を述べるかの様な言葉に思わず目を見開いた、きっと夜久も海も。監督曰く、コイツはバレーに於いて勝ち負けに然程興味がない。つまり、研磨なりの分析の上で「勝てない」と結論づけたということは、正しくそうだということだ。何故。何故そんな事が言い切れるのだろうか。
「オイオイ研磨クーン?いくら何でも言い切ることはないっしょー。俺達最後のチャンスなんですケド?」
「その最後のチャンスを目前に管巻いてる主将と……嫌いな練習をする気はないから」
「ばっ、おい落ち着けって!!研磨も言い過ぎだ!」
思わず掴んだ幼馴染の胸ぐらをすぐさま解かれ、夜っくんと海に仲裁された。二度目がない様に研磨の脇には山本が血の気の引いた顔で此方を見ている。依然として発した言葉のテンションのまま此方を見据える研磨は、暫らくしてから小さく「めんどくさ……」と言って、リュックを背負って部室を去っていった。
分かってるよ、俺がめんどくさい奴だって事、自分が一番分かってる。それでも公私は分けなきゃいけないんだ。彼女を音駒に引き戻すことが本当に正しい事なのか、今はまだ俺には分からないから。