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部室の鍵を戻しに教官室に入る。男バレの棚にはびっしりと都内を中心に全国各地の情報が詰め込まれていた。タブレットも併用していた彼女は「いずれはこれ全部データ化しなきゃと思ってるんですけど、スキャン作業気乗りしなくて」と気まずそうにまた一冊、まっさらなノートに他校の名前とナンバリングを書き加えていたのを思い出す。
そんな感慨に耽っている俺から何かを察したのか、猫又監督から「あの子と研磨に宜しくな」と少しのお金を握らされた。きっと夕飯代代わりに彼女に渡してくれということだろう。研磨の所在を監督が知ってるのは、おそらくナマエちゃんから連絡があったから。部に何かあったのでは、と心配しているのだろうけれど、その原因がまさか自分にあるとは露とも思っていないだろう。
知らなくていいさ。君自身、めいっぱい悩んで選んだコトなんだってくらい、俺達はみんな知っているからね。
猫又監督から預かった鍵でオートロックを開錠して、丁度行ってしまったであろうエレベーターから階段へと歩を進める。彼女の住まうフロアまでなら然程苦痛じゃない。手に引っ提げたスーパーの袋を持ち直して、二段飛ばしで上がっていく。あっという間に辿り着いた部屋の前で、インターホンを鳴らすべきか否か迷った。俺が訪ねることも合鍵を預かっていることも猫又監督が連絡済みだから、ナマエちゃんも了承している。けれど、色んな感情がないまぜになった俺は、あと一歩が酷く重く感じてしかたなかった。
「クロ先輩、お疲れ様です」
「ナマエ、ちゃん……?」
控えめに開かれたドアから視線がかち合ったナマエちゃんは、少しだけ気まずそうにへへ、と笑って、部屋の中へと促してくれた。「クロ先輩がいる気がしたんです」なんて嬉しいことまで言ってくれちゃって。部屋の奥ではデカい低反発クッションに研磨が埋もれていた。ひょい、と覗き込めば「これ、ほしい……」と満足気な様子。
「昨日作ったパスタソースがあるんですけど、良かったら食べていきませんか?」
「メーワクじゃない?急に食べ盛り二人が来て」
「一人は全然食べないじゃないですか」
ふくふくと笑いながら手渡したスーパーのレジ袋の中を確認している。預かったお金をそのまま手渡そうとも考えたが、一人暮らし中の彼女には些か重いだろうものをいくつか買ってきた。残金はレシートに包んでレジ袋の中に。意図を汲み取ったナマエちゃんは嬉しそうに三度お礼を言うのだった。
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クロとナマエのやり取りをクッションに埋まったまま聞き流していた。別にオレといる時のナマエがヘンって訳じゃないけど、やっぱりクロと話してる時の方が彼女らしいなと何処か感じている自分がいて。そしてまたクロも最近のぎこちない雰囲気が取っ払われて普段通りに戻った、気がする。
今の音駒バレー部が春高に出ても多分勝てない、と、思う。また地区予選で負けて、翔陽との『次がない試合』も出来ずにきっと終わるだろう。ナマエというピースが揃って初めて、音駒バレー部はパーティ編成として成立するんだと、ここ暫くのみんなの姿を観察してよく分かった。彼女のほんの些細な気遣いが、存在感が、オレたちに与える影響の大きさ。それは一人一人に対しては小さいものでも、全体を見渡せば綺麗な掛け算が組まれたように大きな影響力となっていたのだと、今更気づいた。
正直自分から能動的に動くのは好きじゃないけど、結果的に目標(ゴール)に辿り着くための先行投資だと思えば安いものだよね。キッチンの方でパスタを鍋に入れた音を聴いて、ここまでお膳立てしとけば後はクロがどーにかするでしょ。そんなわけでパスタが出来るまでの間は暫し眠りにつくことにしよう。
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「うっま!マジで自作したの?このソース」
「いやぁスクーリングの日以外はほぼレポートで、かといって家にいるとやる事なくて……丁度乾麺を大量に貰ったばかりだったのでパスタソースの研究を」
「だから冷蔵庫の中、瓶詰めだらけだったんだ……」
「いやぁ……作ったところで食べるの私しかいないから減らないよねぇ」
綺麗にパスタを巻き取りながら苦笑を漏らすナマエちゃんは、決してバレーの話を持ち出さなかった。さてどう探りを入れるべきか否か……そもそも彼女は何故マネージャーを辞めてしまったのだろう。他校の通信制で多少のスクーリングがあるとはいえ、それ以外の時間を持て余しているなら時間的には来れるということ。それでも来ないのは、また親との何か取り決めでもあるのだろうか。
「クロ…聞きたいことはハッキリ訊けば?」
「研磨お前ねぇ……」
「研磨くんはそういう所、ずるいよねぇ」
眉を顰めてフォークを置いた彼女は、麦茶の入ったグラスを両手で包んで、言葉をひとつひとつ選ぶように話しだした。
「私、音駒バレー部がすきです。熱量は変わらず此処にある。でも、大事な時期に祖父……猫又監督を私情に付き合わせてしまって。本当はもっとみんなの練習に付き添えたはずの時間を、奪ってしまいました……」
「……それは全員事情は分かってたデショ」
「インハイ最後の試合、あのあと僅かな距離を、ボールに触れたはずの距離を、私が奪ってしまったのかもって思ったら、そしたら……」
続きの言葉を飲み込むように、巻き取ったパスタをせかせかと口へと運ぶナマエちゃんを見て、同じように俺も研磨も咀嚼を再開した。彼女はずっと出来なかった『親との離別』という大きな決断をやっとして、勢いのまま駆け抜けなければきっと行動に起こすに至らなかったに違いない。それだけ難しいことと向き合っていたのだと、部員全員が理解していたし、猫又先生もそれを承知の上で彼女の願いを聞き入れたはずだ。だから彼女が自分を責める必要は無いのに、人一倍責任感が強く、過去の苦い経験とも重ねているであろう彼女は、ここまでこの本音を言わずに一人過ごしてきたのだろう。
空になった皿を見つめて、俺は出来る限り齟齬のないように、薄氷の上の彼女に伝える。いや、伝えなければいけないんだ。
「ナマエちゃん、帰って来て。みんなも俺も、ずっと待ってる」
君無しの音駒で勝っても意味がないんだ。君とみんなで積み重ねてきたもので勝つから、そこに意味が生まれるんだ。猫又監督はすごい人だ。けれど、君無しで音駒バレー部は此処まで成長しなかった。次こそは勝ってみせるから、どうかその時は観客席じゃなく同じコートの傍で見届けてくれないか。
「……そこまで熱烈に言われてしまっては、主将の顔を立てないといけませんね」
震えながらも返ってきた肯定の言葉は、溢れる涙と笑顔にくるまれていた。嬉しさのあまり抱きしめたい衝動は研磨のいる手前、そっと胸の内に秘めておこう。いつか君に、この想いをちゃんと伝えるその日まで。